阿漕の浦奇談
あれは…まろか!(臨終を悟る璋子)
ひとなつこい笑顔を浮かべながら「璋子様、私です。義清です」と明かして見せる。「義清?…そなたが義清か?…そう云えば確かに面影がある。し、しかしどうして、どうしてこうも突然に老いたのか」浦島太郎のごときいきなりの義清の老変が解せない璋子に「これはしたり。いかにもわたしはいま老人です。そのわけは、わたしが今より五十年先の未来世からまかり来したからです。御歌(ぎょか)を拝し奉り、いまは西行法師と号しております」と云って璋子にやさしく微笑みかけ、文袋に入れたあの折りの歌一首を思い出させてやる。続けて「この不思議のわけは、これからあなた様がみまかる先の国には時がないからです。時ばかりか、身の貴賤や、あなた様が憂えられていた男女の桎梏さえも一切ありません。そこにあるのはただただ、魂のみ栄えがあるばかりです。璋子様、かの阿漕の浦さえとこしえにはべるのですよ」とやさしく、しかし力強く義清は、いや西行法師は語りかけるのだった。その一言一言が光となって、何の無理もなく胸のうちに入るのが不思議だった。耳というよりは心で聞いている璋子、ただ一言をのぞいては。「みまかるとはなんのことじゃ。まさか、わたしが死ぬとでも云うのか?」‘みまかる’つまり‘あの世へ行く’などと聞けば誰でももよおす不安を璋子も口にした。今という大事をいっさい弁えぬ璋子に「そうお口にするのも無理はありません。しかし璋子様、彼処、あの中空の一角をご覧ください」と云って丑寅の方向を西行が指さした。その方向はるか彼方の虚空に一点の光があらわれ、璋子の凝視とともにそれが一瞬のうちに数間先の光景となって眼前に展開された。卑しからぬ臥所に真っ青な、すっかり顔色が失せた尼御前が伏している。「あれは…あれなるは」おびえる璋子に「三条高倉第の屋敷内と思われます。そしてあれなる門院は…」「まろか!」とついに臨終をさとる璋子だった。臥所の脇では夫鳥羽上皇が馨(けい。読経のさいに打ち鳴らす仏具)を鳴らしながら身も世もない様で大声で泣いている。僧正に合わせる読経も途切れがちだ。たちまちみずからももらい泣きしながら「なんとまあ子供のように…泣きじゃくって…あなた、あなた!」と得子出来以来の恨みもなにも消え失せて子をいたわるがごとく鳥羽を許す璋子であった。さらに西行が璋子の視線を誘う。「几帳の外にも尼御前がおはします」見れば堀河が身をうつぶして泣いている。