阿漕の浦奇談
六道の蛇よ、許さぬぞ!
是非もなし西行も降り来たっては璋子の耳もとで「惑わされてはいけません。これはあやかし(妖怪)です。道に迷う者たちがおおぜい集まって、都度変化して、臨終の霊をたぶらかそうとしているのです。御国へ昇らせないようにしているのです。そもそも稚児のままでみまかられた、無垢なる二宮が業火に堕ちるでしょうか。また斎院(いっき:平安時代、京都の賀茂神社に奉仕した未婚の内親王または女王のこと。ここでは鳥羽・璋子の長女で甚だ若くして逝った)のままにみまかられた禧子(わいこ)内親王様はすでに御昇天なされ、崇徳様はじめ宮様方はなお現(うつ)しにおわします。み心をあやかしどもに煩わされてはなりません」と力強く告げてその狂乱をしずめるのだった。他方あやかしに対しては「皇子皇女(みこひめみこ)様らの声音を使い、このように宮をたばかるとはなにごとか!汝、魔性のもの、疾く去れ!」と大音声で云い渡す。するといかなるあやかしのわざか、六つの業火が横に走ってそれぞれがつながり、ついで西行と璋子のまわりをゆっくりと廻り始めた。その一か所から強く炎が立ったと見るや火の輪全体が異形のものへと変わって行く。すなわち炎の輪がとぐろとなり、立った炎がかまくびとなって、挙句胴回り三尺はあろうかという大蛇へと変じた。その口から瘴気を放ちつつ「うぬこそ讒言(ざんげん:たばかり、嘘)を吐くな。痴れ者が。このわしを魔性と云うか。わしこそはナーガ。古(いにしえ)より神にして三界の王であり、また三界そのものでもある。だからわしから離れては誰も、どこへも行くことは出来ぬのじゃ。汝中宮璋子よ、このようないやしき者に従い行くは笑止なり。汝が睦み馴れたる白河、鳥羽も、また汝が皇子らも、すべてわが内にこそ存在しておるのじゃ。なぜなら生き死にの輪廻さえ、わがうちにあるからである」などとたくみに人語をあやつっては璋子をたぶらかそうとする。それへ「どの面(つら)さげて、またいかなる身体をもって神とは云うか。生死輪廻などと、ともに笑止なり。生死の輪廻ならぬ六道輪廻であろう。六道の蛇よ、もののけの分際で人をたばかるとは許されぬ!」と告げて西行は一語だにかえりみない。
【六道の火に迷う璋子…のイメージ】
【六道の火に迷う璋子…のイメージ】