阿漕の浦奇談

クルクルまわる六道の蛇

「う、うぬが、義清が!法師づらをさげてよくもぬけぬけと云うものじゃ。おのれが人の妻を、まして中宮を、身の程も知らずに寝取ったことを…忘れたかっ!!まっこと、仁も義も知らぬやつ。その折りの呆けた顔を、情欲に狂った様を、いまおのれの目の前で見せてくれようか?西行法師などと、ワハハハハ、とんだ法師もいたものじゃ!」などと大蛇は哄笑して、続いて瘴気を高めたかと思うと口から火を吐いた。さらにとぐろを内に閉めたかとみるや西行はともかく璋子が火にまどい、その身を苦しげによじらすのだった。去るどころか再び憑こうとする蛇に西行はまなじりを決し「作麼生(そもさん)、改めたればこその法師である。俗世の惑いを引きずることはもはやない。おまえの身から誰も離れられぬなどと…フフフ、笑止!この中宮様から、また浮き世への未練から、離れられないのはどちらじゃ。おまえではないか。情欲のままに、あらぬ姿に成り果ておって。これ以上の罪は許されまじ!わが歌魂(かこん)を受けよ!」と云い放ち、数珠をかけた右手を蛇に向けてさすがの気合いと歌わざもてこれを制するのだった。「‘なべてなき、黒き炎の苦しみは、夜の思いの報いなるべし’(←西行法師の和歌)、汝(な)が執着より離れよ!喝(かーつ)!!」この大喝に大蛇がたじろぎ締めつけが緩む。それと見るや西行はおのが手を璋子の身に充てて光を入れた。金縛りにあったようだった璋子の身が解放され、楽になったのを見届けると、もはやこれまでとばかり再び大蛇に向き直ってはおのが六道の巣への回帰を、逆引導をわたしてやるのだった。「蛇よ。おまえにとって離れられないものは、真に大事なものは、畢竟どちらじゃ。この中宮か、それともおのれ自身か。それを明かすべし」と言明し、再びの歌わざを、調伏の一首をくれてやる。「‘汝(な)が身にぞ欲(ほ)りするままに喰らいつけこの六道を廻らば廻れ’」と詠み、そのあとは瞑目して無心の調伏の経を唱えつづけた。すると御仏の思し召しが現れたものか、怒り心頭に達した大蛇が西行に喰らいつこうとしたが、実際には自分の尻尾に喰らいつき、そのまま猛烈ないきおいでおのが身を飲み込み始めた。胴体は口から逃げ口は身を追いかける。畢竟ただグルグルと廻るばかりだ。本当に大事なものは自分自身ということを明かす、まさに六道輪廻そのものの姿である。そのあさましさにあきれかえる璋子に「璋子様、身のさかえ、愛欲を求める心は畢竟この通りと御覧なさいますならば、またこのあさましさこそ六道の益なきわざと見取られるならば、もはや現世におはしますのもいかがなものでしょうか。雲隠れの儀、さてご覚悟のほどは」と西行が問う。璋子は「義清…いや法師様。この蛇にわが身を見るならばただあさましゅう覚えるばかり…み前に恥じ入るばかりです。もし至ることができるのなら、許されるものならば、御国へと、西方浄土へとまいりたい。いまはただ、御僧にこの身を託したく存じます」と、もはや中宮も臣下の違いもなく、逆に法師の前の一仏弟子として虚心坦懐に引導を乞うのだった。その途端廻る大蛇のすがたは璋子の眼の中で塵の世を示す万華鏡のようなものに変わった。廻っている。人々の喜びや悲しみ、怒りやそねみ、愛憎の相などを呈しながら無限にどこまでも。そのめくるめく様に魅せられるなら、飲み込まれるならば、人は決してその轍から逃れられないことが、いまの璋子にははっきりと自覚された。肉体を去ってようやく知ったみずからの愚かさに璋子は静かに涙し続ける。すなわち心の中を法雨がぬらして行く。璋子の新生を願って西行はしばらく光を入れ続けた。六道の万華鏡が億土の彼方へと去って行く…。
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