クワンティエンの夢(阿漕の浦奇談の続き)
シェフ郁子
梅子から逃げ帰って来たその郁子に「そう云う郁子さん、あなたこそどんなお弁当こさえてきたの?人のばかり見てないでご披露なさいな」と匡子が訊く。息をはずませながらも「よく聞いてくれました、匡子さん。いまお見せします」と云ってリュックからちょっと大き目のサンドイッチケース二個を取り出し、フタを開けて中を見せる。「まあ、おいしそうなサンドイッチだこと」とその匡子「あらあ、またいっぱい作って来たわねえ。こんなに、お一人で食べれるの?」慶子が聞き「さっすが。シェフ郁子。レシピを云いなさいよ」と亜希子が訊く。得たり賢しとばかり郁子は「これはですねえ、ちょっと手が込んでますよお。こちらの温かなのがアボガドとベーコンの辛子味噌あえサンドイッチで、こちらの冷たいのが小倉あんとバナナ、それに焼いたクルミとホイップクリームの合わせサンドイッチです。バターもたっぷり塗ってあります。こちらはまず豆板醤をレモン汁で溶いて、それに刻んだベーコンとアボガドを加えペースト状にし、それをパンではさみます。それをホットサンドプレートに入れて両面を焼けば出来上がり。こちらの小倉あんサンドは…」などと滔々と述べたあと、「みなさんに試食してもらおうと思ってこんなにこさえてしまったんです。いかがですか、匡子さん、おひとつ」と進める。しかし大仰に手をふって「うんん、無理無理」と云って箸で自分のお重箱を指し示す。慶子も同様で亜希子は「あとでいただくわ」とだけ云う。織江と絹子ももじもじしながら「あとで…」と部長に順ずるばかり。人に勧めてないで自分がまず食べればいいだろうに、そうも行かないのが‘シェフ’の性なのか、それではとばかりあちらのグループに目を遣る。先程の一件などケロッと忘れ、ニコニコしながら梅子グループへと向かって行く。ちょうど口にものを入れたばかりの亜希子がモグモグ云って止める間もなく行ってしまった。