クワンティエンの夢(阿漕の浦奇談の続き)
白河学長に忖度した?梅子
実は常日頃から梅子はこの新興の新歌人協会に痛く心酔していて、その旨を亜希子始めみんなの前で広言してはばからなかったのだ。のみならず自分たち白河女子大歌道部が本来属すべき旧来の歌人協会に対しては「師弟関係などという馬鹿げた歌塾の旧弊に、その人脈に、また身分や学歴、もっとひどければ喜捨の額の多少に偏重した歌人協会なんて、心底軽蔑するわ。そんなものはすべて、和歌の本来的な発展を阻害する要因以外のなにものでもない。単に和歌のみならず、日本社会を根本から阻害、逼迫させている日本人の悪しき習慣よ」と云ってのけ、返す刀でまさか会長が眼前の鳥羽とも知らず「新歌人協会こそ、その陋習を断つべき、日本社会に新たな布石を為す希望の灯よ。正論や実力が素直に認められる、あるべきオーガニゼイションだわ」などと宣言していた。事実院政出版の短歌誌「白菊」に短歌評論と短歌30首を梅子はすでに応募していたのだった。しかし本来これは決して許されることではなかった。なぜならこれに立ちはだかるであろう旧来の老舗、歌人協会の会長が、他ならぬ白河女子大の学長にしてオーナー、白河征司その人だったからだ。梅子は白河学長その人は自説にもかかわらずなぜか嫌いではなかったが、如何せん後に彼の本音と睨んだ歌人協会の体質に対しては身震いがするほど嫌で、肯じかねていた。大体彼の学校経営方針と歌人協会のそれは甚だしく矛盾しているではないかと梅子には思われた。アメリカ姉妹校への留学とМBI取得を売り物にした、また企業とタイアップして実際的且つ効果的な学業を目指すとする大学に共鳴し、一流大学へ入れる学力を持ちながら敢てそれを蹴って、特待生として梅子は白河女子大に入学していたのだった。もとより和歌が好きで(歌はうまいとは思わなかったが)歌人としてまた歌人会会長としての白河の名前を知っていたからこそのことでもあった。現代的且つ合理的な学業方針と伝統的な和歌の精神を両立させる姿を粋とも捉えていた。実際のところ企業とタイアップするという白河の経営方針は当たり、大学乱立とそれゆえの学生数確保難の中にあっても学校経営に困ることはなかった。