クワンティエンの夢(阿漕の浦奇談の続き)
現れた乞食僧
またなるほど経営者なら一皮剝けばこういう激高癖があってしかるべきなのだろうと思われ、表面の温厚の顔はいつでも豹変するものと留意するしかない。亜希子はまるで鳥羽がお上か殿様ででもあるかのようにその美しい顔に愛想笑いを浮かべては「はい、はい、わかりました。わたしたちは若さだけしか取り柄がなくって…どうか御堪忍ください」と相手を持ち上げてみせる。他方加代同様に立ちあがって来ては梅子の手を握り「梅子…」と目でこれをなぐさめた。しかし梅子はフンとばかり顔をそむけてしまう。まったくこの先が思いやられたが梅子が指摘したとおり自らが独断で招いてしまった結果であり、ここは何とか取りつくろって歌会を成立させるほかはない。つぎに万事心得ているだろう匡子か慶子と、自分のコバンザメと公言する郁子との間で歌合わせをさせようかなどともくろんでいるとあずま屋から見て西南の方、風閣寺に通じる道から一陣の暖かい風が吹いて来て、その風に乗るように一人の托鉢僧がこちらへと歩いて来るのが見えた。そのまま通り過ぎるかと思いきや亜希子の目の前で立ち止り、網代笠に手をあててややこれを持ち上げ、ぶしつけにも亜希子の顔にまじまじと見入って動かない。わけを訊こうとした亜希子の顔が相手の生理的な異臭で一瞬ゆがむ。つまり路上生活者のような異臭に。舌打ちをして鳥羽が追い払おうとしたがそれより早く「非顕教の純密の趣、はなはだ強し。ふたたびの難転なきにしもあらず」と難解な仏教用語をのたまわった。やや上げた笠の下からは不精髭をあごにはやした、陽に焼けた5、60くらいの男の顔が見える。その風体と異臭で僧形とは云え男の身分のほどが容易にうかがえたがしかしそれよりも、そのいかにも人懐っこい目に亜希子は強く引かれた。一瞬デジャビュを感じる。どこかで会っただろうか?思い出せないままに立ちすくんでいると男に見竦められていると勘違いした鳥羽が財布から1万円札を出して「おおきに。けっこうなお経でしたな。これで御精進ください」と云って差出しながら、目とあごの動きで立ち去るよう托鉢僧をうながした。それまでどこか威厳ありげだった僧の顔にいやしげな表情が浮かび、「こ、これは…」と押しいただいて鳥羽に何度もお辞儀をしながらそのまま場を離れて歩き出した。思わず呼び止めようとする亜希子に「あかん、あかん」と首をふって目付きで男の何者であるかを教える鳥羽だった。ほかの娘たちは失笑したり鳥羽に感心したりしている。しかしこの時ふたたび一陣の風が吹いた。身のみならず亜希子の心の中にまでそれは吹きわたる。金峯神社で感じた昔を、古代をしのばさせる切(せち)なる風が。去って行く僧の背に誰かを、なにかの祈りを感じる。亜希子は僧を追って駆けて行った。
「あ、あの…どうか、どうかしばらく…ちょっとご一緒しませんか?いまの法話の続きをお聞かせください。そ、それに、お食事でもいかがですか?」と呼びかける。するとなぜか僧の顔に再びの威厳がたちまちのうちによみがえり、おうように亜希子にうなづいてはこちらへと共に歩を返しはじめた。あきれ返る鳥羽の顔が、また梅子の『も、もう、どうにでもしてよ。つぎはだれ呼ぶの?誰を。熊?』とでも云いたげなふくれっつらが亜希子の目に近づいて来た…。
「あ、あの…どうか、どうかしばらく…ちょっとご一緒しませんか?いまの法話の続きをお聞かせください。そ、それに、お食事でもいかがですか?」と呼びかける。するとなぜか僧の顔に再びの威厳がたちまちのうちによみがえり、おうように亜希子にうなづいてはこちらへと共に歩を返しはじめた。あきれ返る鳥羽の顔が、また梅子の『も、もう、どうにでもしてよ。つぎはだれ呼ぶの?誰を。熊?』とでも云いたげなふくれっつらが亜希子の目に近づいて来た…。