クワンティエンの夢(阿漕の浦奇談の続き)

裸体を見つめる星の王子様

「梅子さんの云うとおり、クライマックスは実はこれからです。同じベトナムのお話ですがこんどは猿と人間の女性との間における、恋愛の話です」。鳥羽があきれはてたように苦笑いしながら首を左右にふる。「ま、ま、社…いや会長、会長」なだめつつ「彼のベトナム戦争の真っ只中、ジャングルの中で、あり得べからざる事態が出来いたしました。アメリカ爆撃機の眼を逃れながら、ジャングルの奥深い一角に、兵士らの休息所を北ベトナム軍幹部らが設置したそうです。大きな洞穴があり、近くにはきれいな泉があったとか。そこに…」「また女が沐浴したわけね」徐々にしおらしらをふりおとしつつ恵美が茶々を入れる。一同は笑ったり(恵美を)たしなめたりするが僧は構わず「そこに接待係として妙齢の女性兵士2人が配属されました。彼女らはホ・チミンルートを行き来する兵士らの慰安接待係を仰せつかったわけです」「慰安婦かいな」とこんどは鳥羽。それへ「いいえとんでもない。彼女らは立派な北ベトナム軍の正規の兵士、単に飲食の提供のみです。言い寄る兵士らも間々あったそうですが2人は、就中1人は、まったく相手にしません。婚約者がいて、その彼も同じ兵士なのですが、目下前線の最大の激戦地で米軍と戦闘中だったのです。かなりの確率でその死が予想されたらしい。ために思うのはその婚約者が激戦地から交代して、撤退する途中にここを通らないものかとか、とにかくその無事を祈るばかりでした。また常々彼女はこの戦争というもの、同じベトナム人同士で戦う、また女までもが戦地に狩りだされねばならないというその狂気に、疑問と嫌気がさしていたのです。そんな折り…お待たせいたしました、沐浴です。近くの泉に行って身体を洗うのが日課となっていたのですが、どういうわけか彼女が沐浴するたびに一匹の猿が来て、しげしげと彼女の裸体をいとしげに眺めまわすのだそうです。他の人間はいっさい関係なくて彼女だけ。白い星形の紋様が黒い毛の胸のあたりにあったのでいつしかその猿を星の王子様と命名したりしていたのですが、しかしだんだんとその女性兵士は猿の目線が煩わしくなって来ます。動物の性本能とは違う、人間の愛にも似たそのいとしげな視線に、あり得ることかだんだんと心が傾く自分に気づき、それを恐れもしたのです。ついに堪えかねた彼女はあとから配属された仲間の男性兵士に頼んで、とうとう猿を撃ち殺してもらいました。しかしその折なんとも云えない罪悪感と悲しみが胸に走ったのだそうです」。
 いつしか一同シーンとして僧の話に耳を傾けていた。鳥羽までもが。一羽の尾長が近くの茂みを鳴らして飛びったが誰も目を向けない。午前中の雪もようだった天気が幸いして亜希子らの他に観光客も訪れないようだ。庵の前ではあたかもそこから御来臨された西行法師が説法をしているかのごとき、一種特異な観をなしていた。
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