クワンティエンの夢(阿漕の浦奇談の続き)

崇徳天皇への考察

(※ここで本編から些かはずれ「崇徳上皇」へのレクチャーを1ページ分入れます)

♬~讃岐の松山に松の一本ゆがみたる、もぢりさのすぢりさに、猜(そね)うだるとかや、直島のさばかんの松をだにも直さざるらん~ ♫(梁塵秘抄より)
 讃岐に遠流された崇徳上皇をからかって当時の民衆が歌ったとされる今様(今で云う歌謡曲?)の歌詞が梁塵秘抄に残っている。選者がもし後白河だったとすればはたしてどんな意趣もてそれを為したのだろうか。この上皇は思わぬ形で即位するまでは言葉は悪いがいわば「うつけの君」とでも評されるような世事に疎い面があったとされる。源氏物語内の八宮とはまったく異種の意味合いにおいてであるが。すなわち即位するなど自分には無理なことと始めからあきらめて、今様などにうつつをぬかしていたのを、棚ボタで機がめぐってくるとまるで人が変わったかのように権力指向となり、源頼朝から「三界一の天狗め」と揶揄されるほどに長期間皇位に君臨し続けたとされる。覇者となった平清盛→木曽義仲→源義経→源頼朝と順にあやつったとされる面を捉えて、世間からもそのように評されるのだろう。遠流されてもはや無害となったと思われる崇徳を、刺客を向けてまで葬ったのがもし事実とすると、ちょっとこれは度が超えていよう。みずからの幼少時には年の離れた弟として可愛がってもらったその崇徳を、である。しかし、これら歴史に記された、あるいは人々に語り継がれた事どもをそのまま鵜呑みにするのもどうかと思われる。「歴史は勝者がつくる」のであり「都合の悪いことは隠す、変えてしまう」のである。例えばはるか時代の下った大塩平八郎の乱にしても、そのような乱に至らしめた当時幕府の圧政があったがゆえともされるのだ。新聞報道とか今に残った史実とかは多分にカナールとカナルディエなのであり、勝者がつくったそれであるということを否定できないということである。崇徳の怨霊化にしても当時と後代の人々が造り上げたプロフィールとも取られ、舌を噛み切って血書を認めたとかはまったくの事実無根であるとする説が根強くあるのだ。拙くはあるが歌人としての作者の目からしても崇徳上皇の御歌を拝見するにつけて、上皇の穏やかなお人柄を感得するばかりである。怨霊などとはこれも後代の忠臣蔵同様、さもあれかしという人々の恣意が働いた結果というのがむしろ事実なのではないか。怨霊などとおどろおどろしくあるのはむしろ、皇位とつらなる権力と富をめぐっての、輩(うから)どもが為した行為、その罪の意識がそうあらしめたのだろう。崇徳、後白河、引いてはこの物語の主人公である待賢門院(しかし正確に云えば主人公は待賢門院・亜希子のみではなく、‘関わり’というのが作者の主意なのだ。六道輪廻に翻弄される人々の、しかし三世を掛けたそこからの離脱、ということをこそ私は描きたいのである)ともども、心ならずもそのような史実とされるカナールに則って描いてはいるが、それは飽くまでもクワンティエンの追求に於いてそれを「お借りした」というのが私における事実なのである。作者の良心として歴史上の方々にお断り申し上げたい。ただし、である。例え崇徳上皇が怨霊などとは無縁のお人柄だったとしても、当時も、後世に於いても、このように誤解されて祭り上げられ続けるならば、さぞや心穏やかならずなのではないだろうか。しかしそれならば語るに落ちるで「お前もだろう」となるのだが、そこはクワンティエン追求の指向のもとに「異なり」を強く申し上げたい。方々に於いてはどうかこの先を御覧じませと合わせて申し上げるしかない。しかしそれははたやはた、いかにも得手勝手、不遜過ぎるだろうか…。
(※次ページ以降本編にもどります)
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