クワンティエンの夢(阿漕の浦奇談の続き)

あーなかしこ、説、か、さ、せ、たまええ

「ふむ、ふむ、ふむ」と3回相槌を打って「なーるほど、感嘆の至りです、梅子さん。よくさきほどの観音にしても、このクワンティエンにしても、急所を突くものだ。さすがは特待生」とまず持ち上げてみせる。梅子は「特待生?…なんであなたがそんなことを知っているのよ」とはからずも毒気を抜かれる。確かに誰もそんなことは口にしていない、皆の視線を受けた東尋僧侶は「あ、そうでしたか?」とうそぶいて「いや、この論説、舌鋒の鋭さにさもやありなんと思ったばかりのことです。はからずも当たったようで。ははは」と軽くかわして「本音と建前、日本人の悪癖、そもそもそれを理解すらもしていない、むしろそれを使い分けるのが当たりまえ、としているような我々ですか…つくづく、慧眼の至りですな」と云うのに『そうよ。でも褒めてくれなくてもいいわよ。それより私がなぜそんなことを云ったか、それがわかるのかさ』と心中で問う梅子。しかしその心中の問いには答えずに「むべ祟り神とは人の云うものかな。人の無明のかく我を死なせしものを、いかでその無明明かさでおくものか。あーなかしこ、説、か、さ、せ、たまええ…ですな」と見栄を切って云うのに「ちぇ、東尋さんさ、なんでここでそんな歌舞伎みたいな調子になるのよ。古語、文語をのたまうのよ。私はさあ、文語が苦手でさあ…」と文句を云おうとする恵美を「しっ、黙って」と制し、こちらはなぜか思いっ切り僧の話に引き込まれる様子の梅子。強くうなずいて、次に「よし、ならば話をうけたまわろう」とでもするかのように、こちらも見栄を切るがごとく鷹揚にあごを上げては腕を組み、話の続きを要求する風を示す。だいぶ時代がかってきた…。
 ところが僧は梅子ではなくまず郁子に「郁子さんとやら、云わずもがなで覚えているだろうが、今の、この梅子さんの云ったことを覚えておきなさい。今のあなたでは戸惑うばかりだろうけれど、いつか必ず心に沁みる時が来ます」と云いさし、さてここぞ白峰とばかり「いや、梅子さん、人には過去世というものがあります。あなたはいまだお若くて、いかなる不遇や不合理にも遭っていないとは思うが、にも拘らず、さきほどらいの論説を聞き、ご様子を見れば、どうも過去世においてなにかしら強く、不遇の極みを経験したような感じもいたします。観じるにこれは魂の癖というもので、その折りその時に限らず、転生のたびに都度経験する、あるいは経験しなければならないような事柄なのかも知れません。いったいなぜそうなるのか…自分をそう至らしめる世間、廻りが悪いのか、それともそれを消化しきれず、肯んじ得ない自分が未熟なのか…それこそみずからにおける本音と建前の問題なのかも知れません。しかしではあるが、そのように転生の都度同じ問題に直面し続けるということは、これはまだあなたがその障害を乗り越えていない、解決していないことを意味するのです。幸か不幸か奇しくもここ吉野は西行庵の前で、いたって拙くはあるが私、沙門に出会ったということはある意味、絶好のチャンスとも思える…さて、そこでです。梅子さん、あなたはこの世が忍土であるということをご存知か?不正義、不条理が充ちている世界、それがこの世です。あなたに限らず誰でもその中で強いうっ屈を抱かざるを得ない。普通はそれを堪え忍ぶ、すなわち所詮世間とはこんなものとして踏みこらえるのですが、それについてはどうお考えですか」と長広舌の末に問いかけた。
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