クワンティエンの夢(阿漕の浦奇談の続き)

色即是空・空即是色・受想行識亦復如是

ここに来て近づきつつあった雷雲と雷鳴がどこかに雲散霧消してしまい、雲間から心地よい日差しがもどって来た。それに合わせるかのように遠近(おちこち)の木々の間からウグイスのさえずりが聞こえて来る。 
僧が「ホーホケキョ」と真似て「鶯が鳴き始めましたね。私の時代は…い、いや、古(いにしえ)にはウーグイスと鳴いていたのですが時代につれて、人の恣意につれて、鳴き声は変わるものですね、ハハハ」と話をふって聞き手たちに一服をすすめるようだ。「ほう、ウグイスという名が昔の鳴き声だっとは知らなんだ。云われてみればむべなるかな、ですな。ハハハ」お茶を飲みながら鳥羽が鷹揚に笑い、「憂く干(ひ)ず、とそれを歌でもじってもいるのよ。漢字をのけて仮名がはやり出したころの話だけど」と部長亜希子が和歌の博学ぶりを披露しながら「ほら、梅子、口角泡を飛ばして、干ずってばかりいないで、お茶でも召し上がれ」と梅子のたかぶりを鎮めようとする。心配もしているのだ。また自分のジャスミンティーを僧にすすめるが「いやいや」とばかり手をふって僧は自分の水筒に口をつける。山中での水分は貴重なものと充分に自覚しているようだ。また亜希子の勧めを「ふん」と一蹴しながらでもお茶に口をつけた梅子が「こころから花のしづくにそぼちつつ憂く干ずとのみ鳥の鳴くらん(訳:自分から望んで花の雫に濡れておきながら‘ああ乾かない’とばかり鳥が鳴くのはどういうことだ)、古今和歌集の藤原敏行の歌でしょ、それって。ウグイスが昔の鳴き声だったという、いい証拠の歌よね。旅の雲水さんが知っていて、新歌人会の会長さんが知らないとはどういうことよ」となおも鳥羽をおとしめ、亜希子に負けじ魂を発揮するのはご愛嬌。「あれですう、お坊様。負けず嫌いのお方。サンドイッチもっと召し上がりませんか?まだありますよ」とすすめる郁子に「まあ、なんという娘さんだ。あなたがおひとつでも食べたのかな?もっともあれだけいただいておきながら聞けた義理ではないが」と云って、心からのように郁子に合掌し「もう充分いただきました。僧供養の功徳のほどははかり知れません。のちの倍返し、何倍返しは必定。南無観世音菩薩ご照覧、このスジャータ姫にのちのお導きを…色即是空・空即是色・受想行識亦復如是(じゅそうぎょうしきやくぶにょぜ)」とお布施への経文を返すのだった。それにこちらも合掌して「ありがとうございますう」と郁子が一礼したのもご愛嬌である。
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