流転王女と放浪皇子 聖女エミリアの物語
 エミリアは老婆の冷たい体を抱きしめて声をかけた。

「しっかりしてください」

 見捨てられた老婆は全身が埃や垢にまみれて発疹から膿がにじみ出し、体全体から悪臭を放っている。

 エミリアは兵士達にお湯を沸かしてもらい、体中をきれいに拭いて衣服も取り替えた。

 生姜湯を唇に含ませると、かすれた声を振り絞って老婆が涙を流した。

「もう私は持ちません。放っておいてくだされ」

 エミリアは老婆の手を取って自分の胸に当てながら語りかけた。

「いいえ、気をしっかりと持つのです。わたくしもこの病にかかりましたが生き残りました。あきらめずに祈るのです」

 老婆が唇を振るわせながら笑みを浮かべた。

「こんな老婆に良くしてくださってありがとうございます。これで思い残すことはありません。お嬢さんのおかげで天国へ行けますよ」

 老女はエミリアの胸の瘡蓋傷を愛おしげに撫でた。

「これは『死神の手形』ではございませんよ。心優しいお嬢さんに神様がつけてくださった『聖なる御印』でございますよ」

 その日、エミリアは宮殿に戻らなかった。

 一晩中老婆の看病に努めて教会に留まっていた。

 キューリフの部下達もタンテラスの手配で交代で駆けつけ、教会周辺に松明をともして警備に当たってくれた。

 仮に外出禁止命令に背いたことが露見したところで、すでに覚悟はできていた。

 国も奪われ何もかも失った自分に残されたのはこの命だけなのだ。

 ならば、その命がつきるまで天の声に従うまでのことだ。

 翌日、老婆はかさかさに乾いた干物のような姿で眠っていた。

 息をしているのかどうかすら分からないような状態だったが、唇にお湯を含ませてやると安らかな表情を見せた。

 発疹から膿のにじみ出た体を拭き、手を握って祈りを唱える。

 マーシャは埋葬作業を続けている兵士達のために食事の用意をしなければならず、エミリアは一人で老婆の看病を続けていた。

 夕方、気を紛らわせるために少し外の空気を吸おうと教会裏の墓地へ出てみると、マーシャとキューリフが大鍋をはさんで談笑している姿が目に入った。

 こんな状況でも人は恋をする。

 お互いに見つめ合いながら話に夢中になっている様子を見て、ふとエリッヒのことを思い浮かべた。

 彼は今何をしているのだろうか。

 街の人々を救おうとする提案を拒否されてから会えなくなってしまった。

 命の危険のある旅の途中でもお互いの心を通わせることができたのに、何が変わってしまったというのだろうか。

 身も心も委ねようとしても、エリッヒの心がそれを拒んでしまう。

 エリッヒの心の奥底には地下墓所に眠る闇が横たわっている。

 そこに光がないのなら、旅の途中に感じていたあの輝きを取り戻すことはできないのかもしれない。

 それはこのフラウムの街が輝きを失ったのと同じだ。

 絶望という言葉以外に、何も思いつかない。

 エミリアは教会の中に戻ると、眠っている老婆の唇にお湯を含ませ、手を握って自分の胸に当てて祈りを唱えた。

 無力な自分にできることはただ祈ることだけだ。

 そこに光があろうとなかろうと、目の前にある現実に向き合う以外にできることなど何もないのだった。

 エミリア達はその日も宮殿に戻らず、教会で夜を越した。

 さすがに二晩目ともなると寝ずの看病というわけにもいかず、エミリアも教会の床に布を敷いて横になった。

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