月の記憶、風と大地
和人は表情を崩さない。
弥生や美羽の前でうろたえ、動揺した人物とは同じと思えない落ち着きぶりである。
「それを今、どうしろと?」
「いや、単にお耳に入れておこうかと思いましてね。野上原部長は連絡がつかないことがおありだから」
その口振りはまるで、その女子社員の不倫相手とされる人物を和人だと特定しているようにも取れる。
鴻江の声はほかの社員にも聴こえ周囲がざわついた。
「鴻江課長、ご報告をありがとう。しかし今すべきことは違うのではないかね。不安な部下たちを目の前に、君は何とも思わないのか」
和人の言葉は最もであり鴻江の場の空気を読まないそれは、ますます若い社員の反感と不満の種を脳内に植え付けた。
それでも鴻江は余裕がある笑みを浮かべる。
「もちろん、このプレゼンは成功させます。私にとっても大事ですからね」
鴻江は意味ありげな表情を浮かべ和人から離れる。
「さあ成功させるぞ。勝利するんだ」
まるで自分が主役のオペラ歌手のように鴻江は両手を広げる。
部下たちの唖然としたその様子を尻目に軽くため息をつくと、和人は室内からそっと抜け出した。
自分の噂は確実に広がっている。
不貞行為が知られれば、会社での居場所はなくなるだろう。
かと云って鴻江が昇進するとは思えなかったのだが。
和人は口元に笑みを浮かべる。
間もなくして社長一行を迎えた和人はプレゼンに集中し、その間は私的な悩みの何もかも忘れることができた。
妻である弥生にも愛人である美羽のことも、彼には扱い切れない大きな案件であることは理解していた。
「おれには相応の酒で良かったのに、欲張りすぎた。溢れた酒は、もう戻らない」