月の記憶、風と大地
この日も夕刻は六時になり弥生は仕事あがりとなった。
休憩室に向かうと穣が一人テレビを観ている。
好きな塗り絵も飽きてしまったのかテーブルにほったらかしになっており、他にノート大のタブレット端末もあるのだが、それも放置したままだ。
「穣くん」
「……パパ、おそい」
パイプ椅子に座り、つまらなそうに足ををぶらぶらと揺らしている。
今日の夜番は静と後台。
津田は早番で五時に退勤時間なのだが、津田目当ての客に捕まってしまったらしい。
すでに一時間以上が経過しているが、まだ接客が終わらないようだ。
静も化粧品のカウンセリングにレジ作業、後台も自分の仕事にレジと忙しく、店内で忙しなく動いている。
残業も考えたが静と後台が「大丈夫」とサインを送り、弥生は頭を下げると業務を終えたのだが。
弥生はエプロンを脱ぎロッカーにしまうと、とりあえずタイムカードを切り穣の隣に座る。
「いつも偉いね、穣くん。パパのお仕事が終わるまで、一緒に遊ぼうか」
すると穣は嬉しそうに首を縦に振る。
「うん!」
その笑顔に弥生も自然と笑みがこぼれる。
穣は可愛い。
本当に癒される。
子にすぎたる宝なし、千の倉より子は宝とはよく云ったものだと思う。
無条件に愛される存在だ。
正直、弥生は参っていた。
太田美羽は美しいし可愛い。
性格も穏やかだ。
和人を含め男が彼女を選ぶのも頷ける。
遊びではなく結婚相手としても、申し分ない。
しかしだ。
和人は既婚者で上司であり、年齢差もある。
未来ある彼女と関係を結んだ夫に怒りを感じるのだ。
昨夜の出来事である。
──
「太田美羽さんと逢ったわ」
家に帰った弥生はリビングのソファに腰を下ろす。
和人は向かい側のソファに寝転んでいたが、身を起こした。
「私に慰謝料を支払うそうよ。あなたはどうするの」
「どうする、とは」
美羽は完全に和人に夢中だ。
おそらく和人の要求には全て答える。
どんな理不尽な要求にも答えるだろう。
男に夢中の女にありがちな心理だ。
弥生は赦せないのだ。
和人がそこまで美羽を虜にしてしまったことが。
嫉妬というよりは、年頃のお嬢さんを巻き込んだ怒りの方が強い。
「太田さんの気持ちを信じてあげたらどう」
弥生が云うと和人は驚いたように顔をあげる。
「あなただって、まんざらでもないんでしょう?」
「いやしかし」
「彼女、お見合いをするそうよ。あなたを諦めるためね」
和人の瞳が動き、弥生は冷静だった。
「結局、あなたは自分が可愛いのよ。太田さんに捨てられるのが怖いだけ。だから私にしがみつくの。安心だから」
弥生は真っ直ぐに和人を見つめる。
「あなたの我がままを聞くことは嫌いじゃなかった。でも私は、都合の良いだけの人間でいることをやめる」
──。
弥生はそうは云ったものの、業務中もこの昨夜のことが頭から離れなかった。
「おりがみ、ぼく手裏剣つくりたい」
「教えてあげる」
穣は純粋で天使のようで、静が溺愛しているのも頷ける。
弥生は心のざわつきと不安をしばし忘れることができた。