月の記憶、風と大地
前進
和人の開発部のプレゼンは成功し、その特殊繊維を使った商品展開していく事が正式に決定した。
肌着やスポーツウェアを中心に商品化が決まっているのだが、何か物足りなさを感じ、和人は頭を悩ませていた。
彼のデスクの前に一人の若者が緊張した面持ちで立っている。
開発部マネージャーをしている男で名前を田上祐(たがみ ひろし)といい、先日のプレゼンで顔を蒼くしていたところを和人に背中を叩かれた、二十六才の青年だ。
「他に案はあるのか?」
「はい。バスタオルやベビー用衣類を検討しております」
受け取った資料に和人は目を落とす。
「医療用品。これもいい」
和人は資料に線を引く。
「手術着や白衣、シーツ類もいい。特に白衣は学校や商業でも使う。やってみろ」
男は頭を下げ部屋から退出する。
少しの間を置き再びドアがノックされ、部下が戻ったのかと思った和人だったが。
「お茶をお持ちしました。野上原部長」
太田美羽がトレーに乗せたカップを持っている。
和人のデスクにカップを置いた。
「妻と会ったそうだな」
和人がため息をつく。
「慰謝料を払うだと。ずいぶんと勝手な言いぐさだな」
「部長」
「人の家庭を壊したいのか、君は」
これほど勝手で理不尽なことはないだろう。
だから和人は弥生に見下り半を突き付けられたわけたが、わかっていないのかもしれない。
美羽は静かに口を開く。
「部長とお会いするのも最後にします。お見合いをするんです。結婚することにしました」
「ああ。妻から訊いた」
和人がチェアの背もたれに背中を預ける。
「好きにしろ。おれは無関係だ」
「さようなら、部長」
美羽はそれだけ云うと頭を下げて和人に背を向け、一礼すると外へ出てドアを閉める。
これで良かったのだ。
トレーを両手で胸に抱え込む。
振り返ることなく、その場から離れて行った。