月の記憶、風と大地
「彼女が好きでした。だから結婚は嬉しかったし、当然だと思いましたが。おれとは考えが違っていて」
育児の時間は彼女にとっては苦痛だった。
おむつを取り換えたり、ミルクを与える事や食事を作る事も。
彼女は楽しむ事が出来なかった。
ベビーシッターも雇っていたが親である事には変わりはない。
次第にノイローゼのようになり彼女は蒸発した。
生後半年の赤ん坊だった穣をひとり、部屋に残して。
「……!」
自分の幼い頃の境遇を思い出し弥生は胸が締め付けられた。
穣を抱き締めたい衝動に駆られる。
穣が自分の幼い頃と重なる。
あまりにも不憫だ。
「会社と彼女の実家に連絡をいれましたが、今は大手の役員として働いているそうです。もう関係ないから、連絡はするなと云われました」
それからは正式に離婚しシングルで穣を育てているという。
世の中は色々な考えがあり生き方があると、つくづく考えさせられる。
あんなに可愛い穣より仕事を選んだ女性。
妊娠は奇跡で出産は命がけの行為だと思うが、津田の云う通り妊娠は一人ではできない。
もちろん強姦など意思を無視した行為は言語道断だ。
しかし恋愛はそれまでの経緯があるわけで、男にばかり責任を押し付ける女性もいるようだが、それは違うと思う。
「自分で育てたいんです。おれも万能ではありませんから、出来る範囲で、ですが」
弥生は妊娠の時点で失ってしまい自分も相手の遺伝子も残すことは出来ない。
「たくさん抱き締めてあげてください。穣くん、喜びますよ。優しいパパがいて良かった」
弥生は笑みをうかべた指で目元をぬぐい、月は子宮を現すという後台の言葉を思い出す。
「月の記憶はおぼろげかもしれませんが。私も静さんと後台さんと同じく、穣くんを見守っていきたいです」
津田はその言葉の意味を深くは訊かなかった。
「そう云ってくれると嬉しいです。これからもよろしく。弥生さん」
津田が手を差し出し弥生は握り返す。
穣がその様子を、じっと見つめていた。