月の記憶、風と大地
都内にある会員制の高級料亭に、後台は両親に呼び出された。
政治家や芸能人も利用する料亭で、利用するには身分の証明が必要であり、会員費用だけでも後台の同年代の大企業勤務サラリーマン平均年収に及ぶ。
とは云っても後台が支払っているわけではなく、両親のコネだ。
スーツを着用し座布団に正座している。
「むだ遣いする男は嫌いです」
職場の想い女性の声が聴こえたような気がして、後台は自然に口元と瞳が小さくほころんだ。
座卓を挟んだ向こうには、そんな後台には気づかない振り袖姿の女性が同じく正座していた。
今日は後台のお見合いの日である。
「後台篤です」
後台が名乗ると女性が口を開いた。
「太田美羽です」
水色を基調とした総絞りの着物を身に付けている美羽が、頭を軽く下げる。
日本伝統高級織物のそれは、田舎であれば庭付き一戸建てが買える金額の上等な代物だ。
「お着物、よくお似合いですね。綺麗です」
「ありがとうございます」
互いの付き添いが退出し二人だけが残された。
ホテルやレストランで気軽に婚活パーティーが開かれている昨今、こう厳粛に執り行うお見合いも、そうはないだろう。
お互いの家柄を調べ上げ、納得が行けばお見合いを敢行する。
本人達の意志は無視だ。
お見合いに限った事ではない。
両親と家を守りたい人間が全てを決めてしまう。
後台はそんな家と両親に嫌気と疑問を持ち離れて暮らしているのだが、完全に関係を絶っているわけではない。
年齢を重ね、考えが変わってきている事も確かだ。
そう。自分が変えれば良いのだ。
後台は立ち上がると障子を開き縁側に腰を下ろす。
梅雨に入った空は曇りで小雨が降っていた。
「太田さんは、どうしてこの縁談を?」
美羽は瞬きをする。
「それはもちろん、結婚するためです」
美羽はそう答えたが何かを吹っ切るような、何かを断ち切りたいがための行動に後台には見えた。
笑顔に見える顔のまま頷く。
「僕は三十八才で、もうすぐ三十九になります。太田さんはまだ二十代ですよね。十も離れた男でいいんですか」
美羽は後台の隣に腰を下ろす。
「年上の男性は好きです」
美羽は降り続ける雨を見つめている。
後台は切れ長の細い瞳を動かした。
「実は僕、好きな女性がいまして」
後台が云った。
「いつも好きだと云っているせいか、本気にしてもらえません」
咲き誇る紫陽花を眺める。
雨空だが、紫陽花には雨の水滴がよく似合うと後台は思う。