月の記憶、風と大地
弥生の仕事あがり、穣と時間を過ごす事が当たり前になっていた。
時間は夜の七時三十分。
父親である津田は、八時に勤務終了予定だ。
「また絵本、読んでくれる?」
穣の瞳は不安げだった。
父親と入れ違いに弥生が帰る事を、知っているからだ。
少し前までは一人で待っていることが当たり前だった穣だが、今は弥生になついて父親の終業までの交流を楽しみにしている。
「もちろん大丈夫よ。私でいい?」
穣は表情を明るくさせた。
「ぼく、弥生さんが好きだよ。帰らないで」
穣は弥生の顔を見上げている。
「ありがとう。私も穣くんが好きよ」
突然の告白に戸惑いながらも身を屈めると、穣と目線を合わせ微笑する。
「パパのお仕事が終わるまで、側にいるね。穣くんはおりこうだもの、それで大丈夫ね?」
穣は恥ずかしそうに、しかし明るく頷いた。
「うん。やったあ!」
弥生は微笑し穣を膝の上に乗せる。
するとポケットが乾いた紙の音を起てた。
疑問に思った弥生が穣のズボンポケットを見ると、突っ込まれたわら半紙の一部が見える。
「穣くん、お手紙忘れてるみたいよ」
弥生がそれをつまみ引っ張り出すと、穣は慌ててそれを押さえたが、弥生の手とぶつかり床に落ちる。
弥生は、それを見てしまった。
それは母の日の絵だった。
母親のいない穣は自分の妄想で母親を描いている。
「ママがどんなひとだったのか、知らないんだ。年少さんのときはパパの絵を描いたんだ」
穣にとって津田は父親であり母親だ。
年齢を重ね大きくなる度に、周囲の家庭との違いを感じているに違いない。
母親のいない疑問。
しかし穣なりに気を使い、父親に見せられなかったのではないか。
弥生の胸が痛んだ。
「そっか」
弥生は膝の上の穣の頭を撫でる。
「穣くんは正しいわ」
穣は見上げる。
「津田さ……パパは、ママでもあるんだもの。だから母の日にママを描いたのは当たり前よ」
弥生は微笑する。
「パパは幸せね。たくさん絵を描いてもらえるんだもの」
「弥生さんは、描いてくれるひといないの?」
穣が首を傾げる。
「私には子供がいないからね」
「ふーん」
穣は少し考えると弥生の膝から飛び降りロッカーへ向かう。
中からクレヨン、お絵描き帳を抱えて来た。
「ぼくが描いてあげる」
「まあ本当?すごく嬉しい」
穣を隣の椅子に座らせテーブルに資格のテキストと問題集、ノート、筆記用具をカバンから取り出した。
「穣くんがお絵描きしている間に、勉強するね。完成を楽しみに待ってる」
穣は嬉しそうに頷き時折、弥生に目を向けて絵を描いている。
髪型を描こうとしているようだ。
弥生は自然に笑みがこぼれ、それを眺めながらテキストを開いた。