月の記憶、風と大地


弥生が通話をタップしスマホを耳に当てる。
夫の興奮した声を訊きながら弥生は、自宅マンションに向けて歩き始めた。


弥生は夫と通話しながら自宅へ戻る。
マンションの最上階、十階の角部屋だ。

玄関のドアを開ける。
女の靴はなくなっていた。

パンプスを脱ぐと室内に上がる。
その間もスマホは耳に当てたまま、夫の興奮した声を訊いていた。

リビングに目を向けるとソファで夫がスマホを耳に当てている。
弥生には気づいていないようだ。


「あなた」


弥生はスマホの通話を切り夫の肩を叩いた。


「!!」


夫の和人は普段は冷静で動じない男だが、文字通り飛び上がるように慌てふためいていた。


「弥生」
「ただいま」
「……おかえり」


妻の冷静さに、和人も落ち着きを取り戻したようだ。


「今までどこへ行っていたんだ」
「公園です。顔を合わせたくなかったので」


弥生はテーブルを挟んだ向かいのソファに腰かける。



「さっそく云いますけど。家へ連れ込むなんて、どういうつもり?」


自分がこんなに落ち着いていられることが意外だった。


「なかったことにしてくれ」


和人が額を押さえた。


「おまえとの関係を壊すほどの相手じゃない。向こうも同じだ。気の迷いだったんだ」


和人は云った。


「謝る。だから赦してほしい」


弥生は夫を見つめた。
普段から頑固で女を下に見る昭和体質の男だ。
そんな男が頭を下げうなだれている。

和人の言葉は無視して弥生は続けた。


「彼女とは長いの?」
「いや、長くない。初めてだ」


和人と弥生は結婚して十七年経つ。

弥生の姉からの紹介で知り合い交際を始め、結婚した。

二歳年上の和人は冷静で、どちらかというとおどおどしてしまう弥生には頼れる憧れの存在だった。

子供と子宮を失った後も労ってくれて、立ち直ることが出来たのは夫のおかげだと思う。

しかしだ。
今回のこれと過去のそれは全く違う。

わかっているのだ。
しかし─。


「今回は見逃してあげる。あなたの初めてという言葉を信じるわ。いい歳なんだから気をつけて」


弥生の言葉に和人は安心したようだった。



「わたしは働きに出るわ。ダメとは云わないわよね」


弥生は有無を云わさない。
和人は頷くしかなかった。





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