月の記憶、風と大地
そんな矢先。
弥生は再び仕事でミスをしてしまう。
今度は品物を二回レジに打ち込んでしまい、気づかずに精算してしまったのだ。
「店長を呼べ!指導がなってないじゃないか」
中年の男性客だった。
弥生は平謝りを繰り返す。
静と後台も謝罪をしたが、全く聞く耳を持たなかった。
弥生は客に怒鳴られ続け、耐えきれなくなり俯く。
「泣けば済むと思ってるのか!」
一時間以上経過し津田が出勤してきた。
いち早く店内の異常な雰囲気に気付き、白衣を着て早々に売り場に来る。
「どうかしましたか?」
津田の『店長』という名札を見て、男性客は矛先を津田に変える。
客が津田に噛みつくように怒鳴っている隙に、静がそっと弥生の側へ歩み寄る。
「大丈夫ですか?」
一端、事務所に下がるか気を使ってくれた。
「いえ大丈夫です」
弥生は涙を拭う。
「私が悪いんです。ミスしないように気をつけます。すみませんでした」
静と後台に頭を下げた弥生だが、その間も津田は客に怒鳴られ続けている。
津田は悪くないのに理不尽さと申し訳ない思いが弥生に降りかかる。
「津田さんは、心配いらないですよ」
弥生の心情を察した後台が笑いかける。
「店長ですし、鋼のメンタルの人ですからね。あれ位じゃびくともしません。そういう人なんですよ、津田さんは」
後台の云う通り堂々と客の話しを訊いている。
目撃していた客も弥生に同情し、労りや応援の言葉をかけてくれた。
「津田さん、ごめんなさい。また迷惑をおかけしてしまいました」
やがて気が済んだ客も帰り、事務所で弥生が頭を下げる。
「お客さんも、たまたま機嫌が悪かったんでしょう。おれの経験上ですが、ああいうお客さんって孤独な人が多いです」
いつかのように叱られると思っていた弥生だが、津田は雑談に答える時と同じ口調だった。
聞けばあの客は店の常連なのだが、家族もなく一人暮らしをしているのだという。
「全員が全員とは云いませんが、話し相手の欲しがり方を間違っているのかもしれません。運が悪かったと気にしないように」
「はい。そうします。ありがとうございました……津田さん、強いですね」
弥生が頭を下げた。
「営業あがりですからね。そりゃあもう、嫌でも鍛えられました。ここに出入りしているメーカーの営業も、なかなか大変な思いをしているはずですよ」
津田は笑った。
津田は上司として最適の人材だと弥生は思う。
安心して働けるような気遣いも忘れないし、飴と鞭の使い方をよく心得ている。
「津田さんが今まで、一番大変だったと思う事はなんですか?」
ふと弥生は訊ねた。
津田は弥生の瞳を覗き込む。
「離婚です、おそらく。後にも先にも」
津田は即答し、弥生はドキリとした。
まだ夫婦の答えは出していない。
返答に困っていると津田は小さく笑い腕時計に目を落とす。
「午後からは出張に行って来ます」
白衣を使用した感想と写真を撮影するのだという。
その会社名を訊いた弥生は驚いた表情き、次には云いにくそうに口を開いた。
「……夫の会社です」
案内の封筒と差出人に開発部の名前が記されている。