月の記憶、風と大地
偶然
一方で繊維会社では、来客を迎える準備が着々と進められていた。
試着を依頼した企業の代表者が集まって来るからだ。
撮影機材の搬入し、一通り準備を終えた所で田上が和人に話しかける。
「総務課の太田美羽の両親が不正請求を行ったとかで、会社に迷惑をかけたくないと退職したそうです」
美羽の両親は医院の経営が行き詰まっていた。
借金返済のため、実際には診療を行っていないのに診療したように偽装した不正請求を行っていたのだ。
発覚した金額は八千万円。
過去の関係資料も調べたが既に破棄されていたため、それ以前は不明だ。
美羽のお見合いも、相手がかなりの資産家と知り勧めていたらしい。
「彼女は悪くないのに」
田上は不満そうだ。
「そうか」
特に感情を現すことなく和人は答え、腕時計に目を落とす。
「部長はご存知でしたか?太田とは親しいと思っていたので」
和人は若い部下に顔を向けた。
田上は悪気はないようだが、意味ありげに聞こえる。
「知らんな。それより時間はまだある。失礼のないよう、万全に準備をしておけ」
「……はい」
誰も何も気にしてはいなかった。
そう、この時までは。