月の記憶、風と大地
運動会
幼稚園から戻った穣は早速、休憩室の塗り絵を持ち出し色塗りをしている。
津田が幼稚園バッグから配られたお知らせを一枚ずつ、チェックを始めた。
事務所にはパソコンに向かった津田、後台、店内から客注文書を持ってきた静がいる。
絵本の定期購読、地元イベントの案内。
そして最後の一枚。
「運動会か」
運動会のお知らせが入っている。
後台が横から覗く。
「今年も作ってもいいですか?」
事務所前の倉庫で食品と雑貨の在庫整理をしていた弥生は、声の方に顔を向けた。
「?」
弥生が首をかしげる。
「穣くんの運動会。おれと静さんでお弁当作って、持って行ったんですよ」
後台が昨年を思い出しながら笑う。
「後台さん、料理うまいんですよ」
静が珍しく後台を讃え、後台が胸を張った。
「料理は要するに化学反応ですから。たんぱく質は熱すると固まるとか、炭酸は膨らむとか。それの調整加減。調味料も同じく……」
「でも盛り付けというか、美的センスがまるでないので。あたしがそれを手伝ってます」
「おれもそういうセンスないから、静さんには助けられたなあ。穣もすごく喜んでたし」
三人の談笑を見ていると、この三人は本当に気が合うのだと実感する。
「今年は弥生さんも行きませんか。穣くんの頑張る姿に、感動しますよ」
「え」
弥生が目を丸くする。
「たくさんの人に応援してもらった方が、喜びますよ」
嬉しいが弥生は一番歳上で、しかも父親の津田よりも三っつ上だ。
「私、おばあちゃんだと思われませんか?穣くん、嫌な思いをするんじゃ」
「今は晩婚が進んでますから、全然大丈夫ですよ。第一、弥生さんはそんな風に見えませんし」
「穣くん、弥生さんが好きですよ。いつも嬉しそうに遊んでいるじゃないですか」
静は表情を変えず、後台は笑顔に見える顔のまま云ったが、次にはどことなく悲しげな顔をする。
「おれ身長が高いからなのか、幼稚園の子に怖がられるんです。津田さんだってそうだし、他にも大きいお父さんいるのに」
「あたしも苦手です。幼稚園の子の気持ちは、よくわかります」
静が腕を組み頷き、後台は更に落ち込んだ。
「あたしは背が低いですから。大きい相手は嫌なんです」
格闘技で低身長の場合、相手に近づくため懐に入る。
だがそれは相手に捕まり攻撃を受けるため、どこかにダメージを受ける場合があるという。
静は発注器を段ボールの上に置くと、身を低くし腕を顔の前で構える。
後台を下から見据えた。
「だからこんな風に」
静が身体を捻ると足蹴りを繰り出した。
足の甲が後台の左顎下でぴたりと止まる。
「一撃で倒せる所を狙います。まあ武道は何でもそうですが」
脚を戻し構えを解く。
「でも下手すると死にますからね。真似しないでください」
津田の唖然、弥生の茫然を左右に静は段ボールの上の発注器を再び手にすると、何事もなかったように売り場に出て行く。
「大丈夫ですか、後台さん」
呆気にとられていた弥生だったが、隣の後台を見上げる。
「大丈夫です。ますます好きになっちゃいました、静さん」
後台はいつも笑顔に見える顔にさらに嬉しそうにさせ、後を追うように店内へ出て行った。