月の記憶、風と大地
報告
閉店後。
店内と外の片付けを終え弥生はタイムカードを切りエプロンをロッカーに仕舞うと、事務所の津田の元へ歩み寄る。
店長会から店に戻った津田は発注処理と事務処理を終えパソコンの電源を落とし、タイムカードを切ったところだ。
穣は休憩室のソファで眠っている。
「あの写真、消してください。もう必要なくなりました」
津田は弥生に顔を向ける。
事の顛末を弥生は全て話した。
津田は無言で訊いている。
「結局、離婚してしまいました。津田さんには、ご迷惑をおかけしてしまって」
津田は頷いた。
「いえ。迷惑などとは思っていません。……おれからも報告があります」
津田は一端、言葉を切る。
「後台くんと静さんには、まだ話してませんが。おれ、本社へ異動になりました」
弥生が驚きの表情で津田を見る。
「実を云うと一年前から、本社に来ないかと誘われていまして。でもおれは現場仕事が好きでしたから、断っていたんですがね」
津田が椅子にもたれると、軋む音がした。
「以前、弥生さんに云われたことがありましたよね。先の事を考えているのかと」
宣伝放送や音楽を落とした店内は驚くほど静かだ。
津田の声が静かに響いている。
「これからの穣の教育費や自分の将来、給料も含めて考えてみたんです。本社で運営に回ろうと思います」
穣が夜のブランコに乗っている姿が脳裏に浮かんだ。
これから小学校、中学校と穣は大きくなっていく。
夜の公園で父親と仕事帰りに遊んだことも、彼には大切な思い出になっているに違いない。
もうそこで会えることもなく穣も公園を卒業していくのだ。
時間は確実に動いている。
弥生は津田を見つめた。
「津田さんが決められたのなら、それでいいんだと思います」
津田の本社異動は彼の出世の第一歩となるし、素直に嬉しい。
同時に寂しさもこみ上げた。
穣とも津田とも会えなくなる。
この親子との出会いは確実に弥生の何かを変えてくれた。
弥生は涙をこらえる。
津田に大して自分は上司や友達、それ以上の感情を持っている。
「あの公園で穣くんと、津田さんに会えて良かった。ありがとうございます」
弥生は涙を堪え精一杯、答える。
それを見て津田は慌てた。
「泣かないでください。あと、お別れみたいに云わないで」
津田は苦笑し弥生を見つめ表情を改めた。
「おれと一緒に来てくれませんか。あなたと一緒にいたい。穣も同じ気持ちです」
弥生は驚き目を見開く。
津田が続ける。
「ご主人と別れてくれる事を待っていた……なんて云ったら、怒りますか」
いつも穣に真摯に向き合い時には自分にも怒ってくれる。
仕事は熱心で日常は穏やかな弥生。
夫の浮気に悩みながらも向き合い続けた。
「途中、早く別れて自分を選べと、何度も抱きしめたくなりましたよ」
穣は自分の子供で親だ。
好みが似ていて当たり前なのだ。
津田が椅子から立ち上がる。
「親子で弥生さんの取り合いになると思いますけれど、いいですか?」
弥生は涙を浮かべる。
「私は……」
何か云いかけた弥生に咄嗟に腕を伸ばし、抱き締めた。
「あなたが歳上で離婚したばかりで。次の男に流されることに戸惑いがある。おれが全て受け止めます。おれといて下さい」
「ずるい、パパ!ぼくも」
いつの間にか起きてきた穣が二人を見つめている。
弥生は笑顔で両腕を広げる。
「ママ!」
穣が笑顔で飛び込んできた。
絶対にはもう縁がないと思っていた言葉。
弥生は暖かい小さな身体を抱き締めた。
「穣くん。これからもよろしくね」