月の記憶、風と大地
決別
弥生は長年暮らしたあの街を離れた。
十年以上暮らした街だったが今は遠い昔の事に思える。
新しい街で選んだ職場はもちろんドラッグストアだ。
同じチェーン店で正社員採用試験を受けて合格し、登録販売者の名札プレートを付け売り場で働いている。
「いらっしゃいませ。あら、こんにちは」
常連客が来店し弥生は笑顔で挨拶をする。
「この前の強壮薬、本当に良かったよ。おかげで疲れが取れた」
「それは良かったです」
雑談を交わし客は満足したのか再び強壮薬を購入し、帰って行く。
正社員となった以上、指導する立場となり覚えることも増えた。
体力も必要だが毎日が充実している。
今日は遅番で九時に仕事は終わりだ。
今、勤務している店舗は九時閉店なのである。
店を閉め外へ出ると子供が駆け寄ってきた。
「弥生ママ!」
「穣くん」
弥生は身を屈め目線を合わせる。
「パパとお迎えに来たんだ。ママが心配だから」
弥生が顔をずらすとワイシャツにネクタイ姿の長身が見えた。
スーツを肩に引っかけている。
「お疲れ」
「津田さん」
津田が何か言いたげな表情で弥生を見て弥生は、あっと口元を手で覆う。
「啓介さんでした」
弥生は立ち上がると穣の手を繋いで津田に近づいた。
「スーツ、皺になりますよ。明日はどこの現場へ?」
「前の店。おれが店長していた場所」
「まあ」
津田は本部バイヤーとなった。
本部と担当地域を往き来して、日々仕事に励んでいる。
現場仕事が好きな津田には、最適な人事だと弥生は思う。
そしてあの店舗で一緒に働いた二人の男女は。
後台は家業を継ぎ静と交際を始め数ヶ月後、二人は結婚した。
新社長就任と妻のお披露目を兼ねて「少しだけ」豪華な結婚披露宴を行った。
式は身内だけの質素な物であったが、それで満足したようである。
「まだ納得は出来ていませんが、おれなりにやっていこうと思います」
津田は頷く。
「後台ならすぐに成果が出るさ。……ところで、おれが失業したら後台のところで、雇ってもらうからな」
すると後台は神妙な顔つきで顎をつまむ。
「なるほど。津田さんを顎でこきつかえる、というわけですね。それは大歓迎です」
笑顔をどこかひくつかせる津田と、常に笑顔に見える細い瞳が、かつての上司に笑いかける。
これからもビジネスの先輩、後輩として付き合いは続くだろう。
静は念願だった専業主婦を満喫していたが、それも飽きてきたのか、キックボクシング指導者としてのライセンス取得のために勉強を始めた。
「弥生さんの不安、わかりました」
白衣ではないラフな私服姿だ。
「専業主婦、憧れてましたけど……実際になってみて、社会に取り残されているんじゃないか、一人になった時に自分はどうなるのか、とか」
「静さんはてっきり、その辺も理解されていると思っていましたよ」
「うーん、あたしも理解しているつもりだったんですけど。専業主婦の年収、なんて記事も読んだことがありますし」
「専業主婦は年収何百万という物ですか。……でも本当に払うんだったら、家政婦雇った方がいいですよね。妻の苦労は、そんなにお安くありません」
弥生が小さな声で云うと静は笑いながら頷く。
口調を改めた。
「弥生さんも新しいこと始めて、人生切り開きましたもんね。あたしも挑戦します」
「頑張ってみますよ。京香ちゃんと一緒に」
いつのまにか後台がおり、笑顔を見せている。
「後台さん。せめて、さんにしてください」
「すみません。京香さん。でもおれものことも、そろそろ名前で呼んでください」
それを訊いていた津田と弥生は顔を見合せ吹き出す。
「ママとパパも、同じこと云ってたよ」
穣の言葉に全員が笑った。