潜入恋愛 ~研修社員は副社長!?~
それぞれの理由
午前の就業が終わると、越智さんは席を立ち上がり私の方へとやって来た。
彼の手には分厚いメモ用紙が握られていて、それを目線で確かめながら、えらく沢山書いたんだな…と無言で驚く。


「これ、取り敢えず午前中に読んだ部分の感想です。少しでも参考になるといいんですが」


越智さんはそう言うとメモを手渡してきて、ちょっと用事があるので社外へ出てきます…と立ち去ろうとした。


「あっ、越智さん」


私はつい彼を呼び止めてしまった。
何だか忙しそうな雰囲気の人に、そんなにしてまで研修社員を装わなくてもいいのでは…と言いたくなってしまったからだ。

相手はさっと振り返り、何でしょうか?と窺うように訊いてくる。
私はハッと我に戻ると、いえ、有難うございます…とお礼を言った。


「どうぞゆっくり休んできて下さい」


多分、休んではいないのだろうと思える相手にそう言葉をかけると、メガネの奥の瞳が細り、広角が確かに上がって微笑みを返された。


「失礼します」


言葉少なく立ち去っていく相手の背中を見遣る。
振り返った瞬間に残る香りに胸を弾ませ、ごくっと生唾を飲み込む。


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