異世界で、なんちゃって王宮ナースになりました。~王子がピンチで結婚式はお預けです!?~

「病棟整備は俺とアージェが請け負います」

 さっそくダガロフさんたちは患者の荷物を新しい病室に移動し、足腰の悪い年配の患者には付き添いながら移動を手伝ってくれる。

 皆で行ったおかげで環境を整えるのにはさほど時間はかからず、お昼頃には休憩をとることができた。

 外の空気を吸うために外へ出てくると、先客のアージェがなにかを一心に見つめているのに気づく。その視線を辿るように施療院前のベンチを見れば、虚ろな目で赤ちゃんを抱えている二十代半ばくらいの女性の姿があった。

「あの人、俺が来る前からあそこに座ってるんだけど、辛気臭い顔で微動だにしないんだよね」

 振り向かなくても私の気配を感じ取ったのか、アージェが声をかけてくる。私はその隣に並んで、彼女の様子を一緒に眺めた。

 この施療院の患者情報は、昨日のうちに全て頭に叩き込んでいる。なので彼女が数日前にこの施療院で子供を産み、母子ともに入院している患者だとすぐにわかった。

「子供を産んでも幸せそうじゃないしさ。いつかあの赤ちゃん、ゴミみたいにポイって捨てられちゃうんじゃない?」

「アージェ、なんでそんなことを……」

 冷め切った彼の物言いになにかが引っかかる。隠密として生きてきた彼は人の好意をよく警戒する節があった。それは幼い頃から無条件で受けとるはずの親の愛情というものを受けてこなかったからではないか。そんな考えが頭を過って彼を咎める言葉が続かず、私はアージェの顔を覗き込む。

「もしかして、アージェがそうだったの?」

「……捨てられたかってこと? そうだよ、さすがに赤ん坊じゃなかったけどね。うちは三人兄弟でお金もなくて、六歳のときに俺だけが売り飛ばされた」

 少しも言い淀むことなく、アージェは自分の身の上を話す。
 売り飛ばされたという言葉が私の頭に中に居座って、相槌を打つことすらできなかった。あまりの衝撃になんの言葉も紡げずにいると、彼はなんてことないように続ける。

「その売られた先がまた、最悪でね。幼い子供を忠実な隠密に育てる里で修行も生死問わない戦闘訓練ばっかり、汚い仕事も散々してきた。俺はこんなに苦しいのに、そのお金であいつらがのうのうと生きてると思うと今でも腹が立つよ」

「……そう、だったの……」

 気の利いた言葉のひとつも浮かばない私に、アージェはなぜか「若菜さんのそういうところ、好きだよ」と言う。

「若菜さんは同情も安っぽい共感もしないでしょ」

「しないんじゃなくて、できないのよ」

 彼の過去に対して、意見できる権利は本人を除いて誰にもない。当事者にしかわからない事情や思いがあるのに、私がとやかく言うのはお門違いだ。

「ただ、言えるのは……もし、アージェが人に誇れないことをしてきたのだとしても、私はあなたがどんな手段を使ってでも生きてここにいてくれることが嬉しい。あなたが足掻かなかったら、私たちはこうして出会えなかったでしょう?」

「若菜さん……」

 仏でも見るように目を見張った彼に苦笑いしながら、私は赤ん坊を抱いた女性に視線を戻した。

「それにね、彼女が幸せそうじゃないと決めつけるのは早いと思う。少し、話を聞いてみましょう?」

 一歩踏み出して、私は立ち尽くしているアージェを振り返る。

「アージェ、ついてきてくれる?」

 返事はしなかったが頷いてくれたアージェと一緒にベンチへ近づくと女性が顔を上げる。その目は泣いたのか赤く腫れ、眠れていないのか下瞼にはクマがあった。

「こんにちは、リアさん。隣に座ってもいい?」

「若菜さん……ええ、どうぞ」

 力ない声で横にずれた彼女の隣に、私はアージェと一緒に腰かける。女性はそれっきり言葉を発することなく、ひたすら俯いていた。

「ねえ、ちゃんと寝れてる?」

 問いかけに返答がなく、私はもう一度声をかける。

「とても疲れた顔をしてるわ」

「……っ、当り前じゃない!」

 体調を気にかけただけで女性は声を荒げた。そのあとすぐに自分の声に驚いた様子で、彼女は自分の口元を手で覆う。

「ごめんなさい、でもこの子、授乳のときにうまく吸いついてくれなくて何時間もかかっちゃって……。お腹空くから泣くし、同じ病室のお母さんにも迷惑かけちゃうし……っ」

「そう、それで眠れなかったのね」

「情けなくて、こんなこと思っちゃいけない、お母さん失格だって思うけど……この子を置いて逃げ出したくて……っ」

 その目からボロボロと涙があふれるのを見て、彼女は弱音を吐けない代わりにたくさん泣いて誰かに助けを求めていたのだと気づいた。

「こんなお母さんでごめんね……っ、なにもできなくて……」

 彼女は何度も謝り続けていた。それをアージェと黙って聞いていた私は、ひとしきり悲痛な気持ちを吐き出した彼女の赤ちゃんを抱く手に自分の手を重ねる。

「リアさん、赤ちゃんが初めて呼吸をしてミルクを飲むのと同じで、お母さんだって授乳におむつ替え、初めてがたくさんあるのよ。初めから完璧にこなせる人なんていないわ」

「でも、早くできるようようにならなきゃ……」

「一生懸命なのね、リアさんは。その気持ちはちゃんと赤ちゃんに伝わってるはずよ」

「そんなことない、きっとダメな母親だって呆れてるわ」

 リアさんは頑なに首を横に振るけれど、私は赤ちゃんの穏やかな寝顔を覗き込んで、やっぱりお母さんの気持ちは届いているなと確信する。

「赤ちゃんは空腹のとき、不安を感じたときに泣いたり抱っこをせがんだりするわよね。それにあなたが応えてくれるだけで赤ちゃんは愛情を感じるの。ほら見て、この子はお母さんの腕の中で安心して眠ってる。あなたを信頼している証よ」

 アタッチメントといって、赤ちゃんとお母さんが共に成長していくにはこういった愛着形成が大事だと言われている。
 リアさんがお母さんとして頑張ってきたことは、ちゃんと赤ちゃんもわかっているのだ。

「そう……なのかしら? そうだったら……いいな」

「ええ、よく頑張ったわね。焦らなくていいの、うまくできないことは私も力になるから、一緒に少しずつ進んでいきましょう」

「うう……っ、ふう、うううっ」

 お母さんは肩を震わせたあと、声をあげて泣き出した。その背を撫でながらリアさんの涙がやむのを待って、私は立ち上がる。
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