異世界で、なんちゃって王宮ナースになりました。~王子がピンチで結婚式はお預けです!?~
「リアさん、少しだけ三人でお散歩をしましょう? 赤ちゃんはうちのアージェがしっかり見ていますから」
突然の提案にアージェは「えっ」と私を見るけれど、気づかないふりをしてリアさんにも立つように促す。
「リアさん、アージェに赤ちゃんを抱かせてあげてくれませんか?」
「いや、俺できないって。生まれてこの方、赤ん坊なんて抱いたことな――」
いつもの飄々とした態度が一変、動揺したアージェにリアさんと私は顔を見合わせて吹きだす。
助けを求めるように私にチラチラと視線を寄越すアージェだったが、リアさんに赤ちゃんを差し出されてとっさに両手を広げていた。
「首が座ってないから、首の下に手を入れて支えて? 反対側の手は股の間に入れて、手のひら全体でお尻を包み込むように……」
リアさんに教わった通りに、アージェは恐々と赤ちゃんを抱える。その姿は落としたら最後、爆発する爆弾を抱えているようで可笑しい。
「こ、こここっ、こう?」
「そうそう、それで身体をぴったりくっつけて……上手じゃない」
くすくすと笑いながらリアさんに褒められたアージェは恥ずかしそうではあったが、赤ちゃんの顔を覗き込んで頬を緩める。
それを見届けた私とリアさんは肩を並べて施療院前の広場を歩き、赤ん坊を抱えているアージェはそのすぐ後ろをついてきた。
「昼の日差しも風もこんなに暖かくて心地よかったなんて、数時間前からここにいるのに気づかなかった……」
花壇を彩る花々がゆらゆらと揺れる様を眺めながら、そう呟いたリアさんの顔は心なしか穏やかだった。
「リアさんには綺麗なものを見て、おいしいものを食べて癒される時間が必要だったのよ」
「若菜さん……もしかして、気分転換のために私を散歩に誘ってくれたの?」
はたと足を止めたリアさんの問いには答えず、私はにっこりと笑う。
「リアさん、今のままでも十分立派なお母さんなんだもの。アージェに抱き方を教えているところを見て、そう思ったわ」
「でも、あれくらい誰でも……」
「アージェは赤ちゃんを抱っこするのは初めてだった。だから上手にはできなかったけど、リアさんに教わってできるようになった。それをあなたは上手だって褒めたわね」
私は数分前にリアさんがアージェに赤ちゃんの抱き方を教えていた場面を思い浮かべていた。
「その言葉を自分にもかけてあげてほしいの。ひとつできたら、『よくできたね』『すごいね』って自分を褒めてあげて?」
「自分を褒める?」
「そう、お母さんはただでさえ覚えることがたくさんあるし、一生懸命だからできないことに目が行きがちになるけど、大事なのはできた自分に気づいてあげること」
待望の赤ちゃんが生まれたからこそ、お母さんは『この子を幸せにしなきゃ』といっそう頑張ろうとする。そうやって無理をして心に不安や焦燥感が大渋滞すると、イライラしたり涙もろくなったり、お母さんの気持ちが不安定になる。
これは産後すぐから三、四週間前後にはよくみられることで、いわゆるマタニティーブルーというやつだ。
「産後はお母さんの身体はひどく消耗しているの。だからリアさんの不安も苛立ちも、誰にでも起こる生理的変化のひとつよ」
「じゃあ、私だけが特別おかしいわけじゃないの?」
「ええ、お母さんの皆が通ってきた道だわ」
妊娠中にたくさん分泌されていた女性ホルモンは産後に急激に減る。この変化がお母さんの精神状態に影響を与えて、マタニティーブルーは起こる。
日本であれば馴染み深い単語だが、異世界ではホルモンという意味すらもまだ解明されていないだろう。
ほっとしているリアさんを見ながら、私は改めて気づかされる。
無事に出産させるだけが看護師の仕事でじゃないわよね。こういった産後に起こるお母さんの心や身体変化への指導、育児の不安を相談できる場所が必要だわ。
私の世界で言う健康福祉センターの母親学級のようなものだ。他にもお母さん同士で交流できたら、不安も和らぐのではないか。
どうしてもこの世界では急性期の患者の治療が優先的になってしまうけれど、もっと病気を起こさないための予防医療へのアプローチも必要なのかもしれない。
私はリアさんと散歩をしながら、この地で自分にできることがはっきり見えてくるのを感じていた。
それから一週間後の朝、私はベッドに横になったナンシーのそばにいた。
本格的に身体が出産の準備に入ったのを知らせる十分間隔の陣痛、前期破水がみられたからだ。
「ナンシー、病室でも説明したと思うけど、初産は子宮の入り口が全開になるまで十時間から十二時間かかるわ。長丁場だから果物とかお茶だけでも食事をとれるときにとってね」
緊張の面持ちで私の説明を聞いているナンシーの元へ、野菜売りをしている旦那さんが仕事を切り上げてやってきた。
「ナンシー、生まれたか!?」
飛び込んできた旦那さんにナンシーの表情が和らいで、「いやね、まだよ」と笑う余裕も出てきた。それに私のほうが胸を撫で下ろして、旦那さんを手招きする。
「ナンシー、少し横向きになってくれる?」
「はい、わかり……ううっ、いたたたたたっ」
横を向いた瞬間に陣痛が来てしまったナンシーに旦那さんは慌てて駆け寄り、その背を恐る恐るさする。
「旦那さん、ナンシーの腰のあたりを上下に撫でて」
旦那さんは「は、はいっ」と余裕なく返事をして、言われた通りに腰をさする。だが、ナンシーの陣痛が強まるにつれて旦那さんのほうが大量の汗をかいていた。
「いきみ感がでてきたわね、今度はナンシーの肛門付近をこぶしでグッと押してあげて。優しく撫でるよりも、こっちのほうが効果があるわ」
「わ、わかりました」
「この繰り返しだから、一緒にお母さんを支えていきましょうね」
この世界ではどうしても出産は女性の仕事という概念があり旦那さんは出産に立ち会うこともなく、施療院に見舞いにくる機会は生まれたときと帰るときの二回だけだ。
リアさんのようにひとりで育児をしなければならないという不安を軽減するためにも、私はこの一週間で可能であれば父親になる旦那さんにも出産に立ち会いをお願いしていた。
旦那さんは陣痛の段階に合わせたマッサージを必死に覚えていて、こういった時間を重ねることで母親になるナンシーは困ったときに頼る相手がいると実感できるのではないかと考えたのだ。
やがて空が暗くなると、ナンシーの子宮が全開大に近づいた。
私は彼女を分娩室に移動させ、台に横にする。分娩室には医師や看護師の他にダガロフさんも手伝いに来てくれており、全員が男性なので羞恥心に配慮して足側には私が立った。