この人だけは絶対に落とせない
桜井 眞依の場合
8月15日。
繁忙期が済んだと同時に9月1日付の人事異動が発表された。
「………」
画面でその名前を確認した店長 関 一(せき はじめ)は、とりあえず溜息をついた。
予定通り、社長秘書の神条 紗羅が東都本店に異動になっている。
内示の話はもちろん人事部から聞いていた。二度聞き返した。
本人の希望で現場を臨んだ秘書、ということだけは教えてくれたが、おそらく多少は何かやらかしたに違いない。それでも、他社へ移らず、わざわざ現場を臨むというのも珍しい…そこにどんな裏事情があるのか、現時点では計り知れない。
本人自体は、美人だともっぱらの噂で、実際に見たこともあるので間違いないのだが、先日の柳原の不倫騒動故の異動の件もあるし、こんな所で色気を振りまいて仕事を乱すことだけは、絶対にやめてほしい。
関はそれだけを願いながら、席を立った。
年間で一番売上を上げる7月が終わったが、それが、思うようにいかなかったということは、結果を見れば一目瞭然だった。
どこに不足があったのかはまだ追究ができていない。
おそらく、このタイミングでは登もまだで把握できていないと思うが、頭をすげ替えようという案だけは先走っている気がしていた。
溜息を吐きながら、窓から従業員用の駐車場に堂々と停車している愛車のベンツを見つめる。色々自由になり、ベンツを買ったというのに、逆にこのベンツが身を不自由にしているような気がしてきていた。
しかし、そんなことで弱音を吐いている場合ではない。
柳原の後釜には中年の副店長、市瀬(いちせ)が加わった。会社、客、社員に人気があるからこそここへ入り込んできたのだろうし、それが店を盛り上げる起爆剤になればいい…と思うと同時に、この店長の座をいづれ譲り渡す可能性もあるのかもしれないと思うと、なんともいえない複雑な気持ちが増した。
スタッフルームの一角で、ふっくらした大きな唇をのびのび広げて大爆笑する柊 綾子(ひいらぎ あやこ)の隣で、俯き加減のカウンター部門長、桜井 眞依(さくらい まい)は、
「どっちでもいいじゃないですか…」
と呆れ半分で小さく声を出した。
腰かけている2人の隣で立っている風見 潤(かざみ じゅん)は2人より一回り年上だが、それでも低姿勢で、
「笑い過ぎですよ、柊さん」
と苦笑いしながらたしなめる。
「す、すみません……」
謝りながらも、まだ笑いは堪え切れていない。
仕事の休憩中という穏やかな場所で、良い雰囲気なのは間違いなかったが、桜井的には、メープルシロップとはちみつって同じ物じゃないの?の一言でこれほどまでに笑われるとは予想だにしなかった。
「桜井さん、そしたら……向井さんが夕方来られるそうですが一応市瀬副店長には伝えておきましょうか」
なんとも印象の薄い、よくあるどことも影の残らない中年、風見が真剣な目をもって訴えてくる。向井、というのは午前中に、「昨日取り付けたテレビが注文した物と違う」とクレームの電話をかけてきた客のことだった。販売担当に確認をしたところ、客の要望で注文したテレビで間違いがない、客が電話で言った高価な商品をあれだけ値下げするはずがないということは分かっているので、もし交換するとしても差額は必ず支払ってもらわなければならない。
「いいです、いいです……」
言いながらも、桜井は両腕を組み、視線をテーブルの上の菓子パンに目をやる。
相手は強面の男性客らしいが、交換するかもしれないテレビの在庫は確保しているし、配達日などもチェック済だ。
「私は17時上がりですから…」
風見は意味があるのかどうか、腕時計を確認する。
「うん。大丈夫です」
にっこり笑顔で安心させておく。夕方は身体をあけておくし、どうにもならなくなってから市瀬副店長に判断を仰ぐべきだ。
「分かりました…戻ります」
それを確認しに来ただけの風見は、さっと踵を返す。
「あーあ……向井さん……」
綾子はコンビニのパスタをフォークに巻きながら、「それっぽい人みたいですね」。
「うん、そうですね」
桜井は、相手がやくざだろうとなんだろうと関係ないと、特に動じず野菜ジュースに手を伸ばす。
「あ、そういえば昨日は休みでしたよね」
「はい」
ちら、と綾子の横顔を見た。もう笑ってはいない。
一歳年上の綾子だが、役職は年下の桜井の方がだいぶ上だ。このパターンが多いため、桜井は誰にでも敬語を遣うように心がけている。
「神条さんがケーキ作ってきてましたよ、第二弾」
本社の秘書が、突然店舗に降りてきたというだけでも驚いたのにそれがまさか自分の部下になるとは予想だにしていなかった。そして次に感じたのは、面倒、という一言だ。
だが、実際仕事をしてみるとさすが人間性がしっかりしているだけに面倒にならずに済んでいる。知識的なことは段々しっかりと追いついて来るし、既に戦力になりつつあった。
「へえー、食べたかったなあ。この前のレモンパイの時も休みだったんですよね、私。第二弾は何だったんですか?」
社長室にいたせいか、こうやってお菓子を振る舞うあたりは、それ以上に人間性を発揮しているともいえる。
「チョコタルト」
「すごい!高度ですねー」
秘書というのはそういう腕も必要なのかもしれない。
「で、しかもそれを久川(ひさかわ)部門長が食べたからもう大はしゃぎ!」
「……はしゃぐって、誰が?」
桜井は綾子の顔を見て聞いた。
「みんな」
綾子は口をもぐもぐさせながら答える。
「あぁ、甘い物食べそうにないクール顔なのに、ケーキ食べた―ってはしゃぎ?」
綾子は顔の前で横に手を振る。
「神条さんとの仲を疑って」
「え?……そうなんです?」
AV機器を担当する久川部門長は1年ほど前から在籍しているが、神条は2週間前からだ。2週間前に出会ったはずの2人の、予想もしなかったカップリングに、一時停止してしまう。
「私もその場にはいなかったけど、……違うと思うけどなあ…。思うけどお、そうだと言われたら逆に納得しちゃうかも」
「……」
どこにその納得の要素があったのかどうか、まるで分からない桜井は、全く納得しきれない。だが、納得しなければならない必要性はどこにもない。
「けど、この店であの2人がデキたら、最高にすごいことになるわよ!絶対に!アンチが増えて総好かんよ、絶対に!言い切れる!」
綾子は随分力を込めて、神条が全女子を敵に回すと言い切ったが、
「……そんなに久川部門長、いい?」
良いと言っている人しかいないとは思っていたが、一応聞いた。
「悪いなんて言ってる人、いないと思う。女の中には。私も、外見はいいと思う。全然喋んないから面白くはないけど」
「……ふーん」
まあ、確かに外見は良いとは思うが。
「私の彼氏の高校の時の後輩で、昔から人気あったって言った」
「へえー、そうなんだ」
「だけどこれ、内緒ですよ。言ったら紹介してとか絶対言われるから」
「大丈夫、大丈夫です」
桜井は、綾子の目をしっかり見て言う。
「まあ、あのお菓子がこれからどうなっていくのか、見物よね」
責任者として、あまり、そういう方向にとりたくなかった桜井は、
「……まあ…お菓子作りにはまってるだけかも、しれませんしね…」
元秘書なんだから、みんなの機嫌取りの方が近いようにも思う。面白くなくなった綾子が黙ったので、
「……、ネットに載ってるレシピってそのまま作ってもうまくいくんですかねえ、作ったことないけど」
「あ、結構いけますよ!どれでも」
話題が若干逸れたおかげで、調子が元に戻る。神条がお菓子を持ってくることをあまりよく思っていない証拠だ。
「綾子さんも作るんですか?」
「うんまあ、気が向いたら」
にっこり笑顔を見せてくれる。彼氏にケーキくらい作るんだろうな……。
「……あ、そろそろ…」
腕時計を見るなり、慌ただしく立ち上がった綾子を尻目に、無意識に溜息をついてしまった桜井は、それを隠すようにパンを両手で持ってかじった。
高校に入学して、その夏休みから東都シティの倉庫でバイトを始めた。土日、長期休暇だけのバイトだったが18歳から売り場の商品補充などの役割も与えられ、そのフロアに立ちたくて高校卒業と同時に入社した。進学クラスでただ1人就職した。
だが、同期が色々他の店舗を回される中、桜井だけは東都に居続けさせてくれた。そのおかげで、東都で最短らしい22歳で副部門長、25歳で部門長に抜擢され、その年には社長や会長に混ざって選ばれし役職者数名と共に一泊二日の慰安旅行にも参加した。
あれから3年。途中、社長が故意にしている同業会社の店舗応援に行き、数か月は店から離れたこともあったが、今は勘を取り戻し仕事の充実度は増している。さすがに、40過ぎの男性を部下するとなった時は心配もあったが、人間性が良いし、そのあたりは今は心配していない。
繁忙期が済んだと同時に9月1日付の人事異動が発表された。
「………」
画面でその名前を確認した店長 関 一(せき はじめ)は、とりあえず溜息をついた。
予定通り、社長秘書の神条 紗羅が東都本店に異動になっている。
内示の話はもちろん人事部から聞いていた。二度聞き返した。
本人の希望で現場を臨んだ秘書、ということだけは教えてくれたが、おそらく多少は何かやらかしたに違いない。それでも、他社へ移らず、わざわざ現場を臨むというのも珍しい…そこにどんな裏事情があるのか、現時点では計り知れない。
本人自体は、美人だともっぱらの噂で、実際に見たこともあるので間違いないのだが、先日の柳原の不倫騒動故の異動の件もあるし、こんな所で色気を振りまいて仕事を乱すことだけは、絶対にやめてほしい。
関はそれだけを願いながら、席を立った。
年間で一番売上を上げる7月が終わったが、それが、思うようにいかなかったということは、結果を見れば一目瞭然だった。
どこに不足があったのかはまだ追究ができていない。
おそらく、このタイミングでは登もまだで把握できていないと思うが、頭をすげ替えようという案だけは先走っている気がしていた。
溜息を吐きながら、窓から従業員用の駐車場に堂々と停車している愛車のベンツを見つめる。色々自由になり、ベンツを買ったというのに、逆にこのベンツが身を不自由にしているような気がしてきていた。
しかし、そんなことで弱音を吐いている場合ではない。
柳原の後釜には中年の副店長、市瀬(いちせ)が加わった。会社、客、社員に人気があるからこそここへ入り込んできたのだろうし、それが店を盛り上げる起爆剤になればいい…と思うと同時に、この店長の座をいづれ譲り渡す可能性もあるのかもしれないと思うと、なんともいえない複雑な気持ちが増した。
スタッフルームの一角で、ふっくらした大きな唇をのびのび広げて大爆笑する柊 綾子(ひいらぎ あやこ)の隣で、俯き加減のカウンター部門長、桜井 眞依(さくらい まい)は、
「どっちでもいいじゃないですか…」
と呆れ半分で小さく声を出した。
腰かけている2人の隣で立っている風見 潤(かざみ じゅん)は2人より一回り年上だが、それでも低姿勢で、
「笑い過ぎですよ、柊さん」
と苦笑いしながらたしなめる。
「す、すみません……」
謝りながらも、まだ笑いは堪え切れていない。
仕事の休憩中という穏やかな場所で、良い雰囲気なのは間違いなかったが、桜井的には、メープルシロップとはちみつって同じ物じゃないの?の一言でこれほどまでに笑われるとは予想だにしなかった。
「桜井さん、そしたら……向井さんが夕方来られるそうですが一応市瀬副店長には伝えておきましょうか」
なんとも印象の薄い、よくあるどことも影の残らない中年、風見が真剣な目をもって訴えてくる。向井、というのは午前中に、「昨日取り付けたテレビが注文した物と違う」とクレームの電話をかけてきた客のことだった。販売担当に確認をしたところ、客の要望で注文したテレビで間違いがない、客が電話で言った高価な商品をあれだけ値下げするはずがないということは分かっているので、もし交換するとしても差額は必ず支払ってもらわなければならない。
「いいです、いいです……」
言いながらも、桜井は両腕を組み、視線をテーブルの上の菓子パンに目をやる。
相手は強面の男性客らしいが、交換するかもしれないテレビの在庫は確保しているし、配達日などもチェック済だ。
「私は17時上がりですから…」
風見は意味があるのかどうか、腕時計を確認する。
「うん。大丈夫です」
にっこり笑顔で安心させておく。夕方は身体をあけておくし、どうにもならなくなってから市瀬副店長に判断を仰ぐべきだ。
「分かりました…戻ります」
それを確認しに来ただけの風見は、さっと踵を返す。
「あーあ……向井さん……」
綾子はコンビニのパスタをフォークに巻きながら、「それっぽい人みたいですね」。
「うん、そうですね」
桜井は、相手がやくざだろうとなんだろうと関係ないと、特に動じず野菜ジュースに手を伸ばす。
「あ、そういえば昨日は休みでしたよね」
「はい」
ちら、と綾子の横顔を見た。もう笑ってはいない。
一歳年上の綾子だが、役職は年下の桜井の方がだいぶ上だ。このパターンが多いため、桜井は誰にでも敬語を遣うように心がけている。
「神条さんがケーキ作ってきてましたよ、第二弾」
本社の秘書が、突然店舗に降りてきたというだけでも驚いたのにそれがまさか自分の部下になるとは予想だにしていなかった。そして次に感じたのは、面倒、という一言だ。
だが、実際仕事をしてみるとさすが人間性がしっかりしているだけに面倒にならずに済んでいる。知識的なことは段々しっかりと追いついて来るし、既に戦力になりつつあった。
「へえー、食べたかったなあ。この前のレモンパイの時も休みだったんですよね、私。第二弾は何だったんですか?」
社長室にいたせいか、こうやってお菓子を振る舞うあたりは、それ以上に人間性を発揮しているともいえる。
「チョコタルト」
「すごい!高度ですねー」
秘書というのはそういう腕も必要なのかもしれない。
「で、しかもそれを久川(ひさかわ)部門長が食べたからもう大はしゃぎ!」
「……はしゃぐって、誰が?」
桜井は綾子の顔を見て聞いた。
「みんな」
綾子は口をもぐもぐさせながら答える。
「あぁ、甘い物食べそうにないクール顔なのに、ケーキ食べた―ってはしゃぎ?」
綾子は顔の前で横に手を振る。
「神条さんとの仲を疑って」
「え?……そうなんです?」
AV機器を担当する久川部門長は1年ほど前から在籍しているが、神条は2週間前からだ。2週間前に出会ったはずの2人の、予想もしなかったカップリングに、一時停止してしまう。
「私もその場にはいなかったけど、……違うと思うけどなあ…。思うけどお、そうだと言われたら逆に納得しちゃうかも」
「……」
どこにその納得の要素があったのかどうか、まるで分からない桜井は、全く納得しきれない。だが、納得しなければならない必要性はどこにもない。
「けど、この店であの2人がデキたら、最高にすごいことになるわよ!絶対に!アンチが増えて総好かんよ、絶対に!言い切れる!」
綾子は随分力を込めて、神条が全女子を敵に回すと言い切ったが、
「……そんなに久川部門長、いい?」
良いと言っている人しかいないとは思っていたが、一応聞いた。
「悪いなんて言ってる人、いないと思う。女の中には。私も、外見はいいと思う。全然喋んないから面白くはないけど」
「……ふーん」
まあ、確かに外見は良いとは思うが。
「私の彼氏の高校の時の後輩で、昔から人気あったって言った」
「へえー、そうなんだ」
「だけどこれ、内緒ですよ。言ったら紹介してとか絶対言われるから」
「大丈夫、大丈夫です」
桜井は、綾子の目をしっかり見て言う。
「まあ、あのお菓子がこれからどうなっていくのか、見物よね」
責任者として、あまり、そういう方向にとりたくなかった桜井は、
「……まあ…お菓子作りにはまってるだけかも、しれませんしね…」
元秘書なんだから、みんなの機嫌取りの方が近いようにも思う。面白くなくなった綾子が黙ったので、
「……、ネットに載ってるレシピってそのまま作ってもうまくいくんですかねえ、作ったことないけど」
「あ、結構いけますよ!どれでも」
話題が若干逸れたおかげで、調子が元に戻る。神条がお菓子を持ってくることをあまりよく思っていない証拠だ。
「綾子さんも作るんですか?」
「うんまあ、気が向いたら」
にっこり笑顔を見せてくれる。彼氏にケーキくらい作るんだろうな……。
「……あ、そろそろ…」
腕時計を見るなり、慌ただしく立ち上がった綾子を尻目に、無意識に溜息をついてしまった桜井は、それを隠すようにパンを両手で持ってかじった。
高校に入学して、その夏休みから東都シティの倉庫でバイトを始めた。土日、長期休暇だけのバイトだったが18歳から売り場の商品補充などの役割も与えられ、そのフロアに立ちたくて高校卒業と同時に入社した。進学クラスでただ1人就職した。
だが、同期が色々他の店舗を回される中、桜井だけは東都に居続けさせてくれた。そのおかげで、東都で最短らしい22歳で副部門長、25歳で部門長に抜擢され、その年には社長や会長に混ざって選ばれし役職者数名と共に一泊二日の慰安旅行にも参加した。
あれから3年。途中、社長が故意にしている同業会社の店舗応援に行き、数か月は店から離れたこともあったが、今は勘を取り戻し仕事の充実度は増している。さすがに、40過ぎの男性を部下するとなった時は心配もあったが、人間性が良いし、そのあたりは今は心配していない。