この人だけは絶対に落とせない
 久川 翠(ひさかわ みどり)はふっと溜息をつきながら、重要書類閲覧室でスケジュールを手帳にメモし続けていた。

 この作業が一番重要であるがために、役職者はここで時間を使うことが多い。

 午前中は誰もいない中で静かに作業ができるのだが、午後は昼食後にここに寄る者が多く雑談する者もいる。だが、雑談はスタッフルームでとるものであり、ここは私語禁止のつもりで皆いてほしい、とひそかに思いながら作業を続けていた。

「いやぁ……私は……」

 声が聞こえたので、顔を上げてドアから入ってきた人物と目を合せた。もちろん、それが桜井であると分かって。

「お疲れ様」

 こちらから挨拶する。

「お疲れ様です」

 しかし、後から入ってきたのは白物家電の平社員、曽根谷だった。

「うっす……。で、そのキス顔が最高だったんですって!」

 こんな所で何の話だと、ギロと睨みをかけたが、曽根谷は棚に置かれたファイルを手にとっている。

「……あぁ……」

 部屋の中央にはテーブルがあり、その周囲に椅子が並べられているのだが、俺と対面するように桜井が腰かけ、直角に曽根谷が腰かけた。

「多分桜井さんのキス顔も最高ですよ!」

 即カチンときた俺は、

「それ、アウト」

 曽根谷を睨んだ。奴は一度こちらと目を合せると、すぐに顔ごと逸らし、

「………あうと…すか?」

 桜井を見て問うた。だが、桜井は、書類を見つめたままだ。

「アウト」

 もう一度俺が繰り返す。

「アウト、っすか?」

 曽根谷はしつこく桜井に聞き直した。

 さすがに書類から目を離した桜井は、

「……久川部門長がそう言ってるんなら…そうなんじゃないですかね……」

 書類を見たまま言う。

「でも、桜井さんがアウトって思わないかぎりそうじゃないですよね」

 セクハラのラインのことを言っているが、

「今僕が思ったらそう。アウト。…同じことはもう言わないようにして下さい」

 俺は言い切り、書類に目を落とす。

 と良いタイミングで、

「お疲れーっす」

 全く何も知らない副店長、市瀬(いちせ)が入ってきたことにより、すぐに曽根谷は出て行く。

「はあー……」

 市瀬は何も言わず、ファイルを手に取ると、今まで曽根谷がいた席に腰かけた。

 続いて、同じく今月異動してきたばかりの平社員、三好(みよし)が入ってくる。ここに何をしに来たんだと思った瞬間、

「桜井さん」

 桜井の隣に、ファイルも持たずに腰かけた三好は、彼女の方を向いて声をかけた。

 俺は逆に視線を少し下げた。

「今日飯行きません?」

 隣で市瀬が顔を上げたのが分かった。

「……え…あ、私、ですか?」

 桜井はゆっくり顔をあげて、三好を見ている。

「そう、人数たんないんですよ。来てくれるだけでいいですから。この前も来てくれなかったでしょ?」

「……あ……」

 ここをどこだと思ってる…。

「あそう、人数たんないの」

 即、割って入ったのは市瀬だった。

「……」

 三好は市瀬を見向きもしない。

「何人たんないの? 俺で良かったら代わりに行くよ?」

 そっと桜井を見た。可愛そうなほど、困り果てた顔をしている。

「……チッ……」

 三好は明らかに舌打ちをして、出て行ってしまう。

「……」

 桜井はすぐに席を立ってファイルを棚に戻した。だが、数秒待って、もう一度ファイルを取り出し、立ったままページをめくり、小さく何度か呟いて、そのまま外に出る。

 ここに居づらくなって、暗記して行ったのだろう。

「………」

 2人になったが、市瀬は何も言わない。

 俺は、桜井に対して猛烈な独占欲を感じ、ただ宙を見上げた。

 ここに来て1年。いや、5年前に桜井の存在を知ってからずって見てきた。あぁやって、飯やなんやに誘われているのは知っている。そして、それを蹴っているのも知っている。

「桜井はすごいね」

 黙っていた市瀬が突然口を開いたので、驚いてその方を見た。

「すごい、副店長の僕でも、学ぶことがたくさんある」

 まるで独り言のようだが、市瀬の物言いに妙に腹が立った。

 彼女はみんなの物ではない。

「……そうですね」

 それに、そんなことは言われなくたって知っている。平でいたその時から、俺が入社して、この店に仮配属の研修で来た5年前のその日から。

「他会社の応援には半年くらい行ってたのかな…。その間、更に全国の支店も色々回ったらしいね。帰って来てからはスキがないって……いや、前からスキなんてなかったんだろうけど」

 市瀬は自分で言って自分で笑った。そこには何の他意もないとは思ったが、疑わずにはいられないほどの嫉妬心が押し寄せていた。

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