この人だけは絶対に落とせない
関 一(せき はじめ)は、店長室に自らで張り出した売上予算を見つめながら、溜息を吐き、椅子に腰かけて、ボトルコーヒーを一口飲んだ。
なんだかんだで、しなければならないことはたくさんある。
が、その前に先週ある噂を聞いたことが、今日は特に頭から離れない。
数年前に社長の突然の思いつきで、選ばれし数名のみが参加できる一泊二日の慰安旅行が開催された。いわゆる、社長賞、というやつである。
社長、幹部、本社の精鋭、数名の店長、副店長、ただ1人部門長の桜井 眞依が参加。その時はまだ自分は本調子ではなかったため、選ばれなかった。
もし、次その機会があれば必ず選ばれるような仕事をしていこう、と思っていたことを、最近思い出すようになっていた。そして、その社長賞を今年あたり、設けるかもしれない、という噂も聞いた。
そういう本社筋の噂を聞くと、心がざわついて仕事にならない時があるので、なるべく聞かないようにはしているのだが、今回は少し失敗した。
しかし、よく考えれば、秘書の神条もその旅行に同行していたはずである。その神条はおそらく色々な知識や情報を兼ね揃えているはずであり、ここで伸びていくにも土台は充分できているようだった。今も、意外にも輪に入り、波にも乗っていて、自ら乱すことはしなさそうだ。
あとは、単に接客の向き不向きで多少左右されるくらい…だといいのだが。
「失礼します」
ふと我にかえり、後ろを振り返る。そこには、少し前に頭に浮かんだ桜井がそのまま立っていた。
「あっ、……」
思い出し、デスクの上のカゴの中から一枚のプリントを出す。
「はい。今月もお願いします」
テレビ、パソコンを扱うAV機器部門、エアコン、冷蔵庫を扱う白物家電部門、携帯電話、レジ、契約を扱うカウンター部門、倉庫部門、この中でただ1人、自分の部門のシフトを自分で作っているのは桜井1人だけだった。
「はい、分かりました」
桜井は丁寧に紙を受け取ってくれる。
カレンダーが書かれた紙には、手書きで数か所に個人名が書かれている。
それは、従業員が休みを申請してきた日の中で店長が決裁した日にちであり、それを元にシフトを作るのである。元々は店長である自分が全て作っていたのだが、カウンターは副部門長以外は全員女性であり、シフトで細かく女性達の動きを追っていかないと、現場の空気にさしつかえがある、ということで、本人に任せている。
女性達の内々ことは、男の自分では入り込めない所がある。部下を信じるという手でその辺りの面倒事は完全に任せっきりの状態だった。
「そういえば」
「はい」
桜井はプリントから視線を上げた。
「慰安旅行に行った時、神条さんいたよね?」
「あ、はい。いました…」
それがどうした、という表情である。
「いや、どうもしないけど、ふっと思っただけ」
「あぁ…。神条さん、昨日手作りのチョコタルト作ってきてたらしいですね」
「へえ。あそう……」
なんとなく嫌な予感がして、つい黙ってしまう。
「……」
桜井もそれを感じて、同じように黙ってしまう。
「……チョコタルトってどんなやつだったっけ?」
「えっ」
桜井は笑った。
「えっと、タルトの中がチョコ…上がチョコってやつです」
「タルトってどんなやつだった?」
「えーっとぉ、……クッキーみたいなやつです。その上に、チョコの……ムースみたいなやつ、じゃないですかねえ。…ムース、分かります?」
「分かる、ゼリーみたいなやつだね」
「ゼリー……」
桜井は若干首を傾げた。
「透明じゃないことは分かるよ。ゼリーじゃないか。クリームみたいなやつか」
「えーっと……、難しいですね」
桜井は笑って続けた。
「こうかなあというのは頭でも味でも分かるんですけど、どう説明していいか全然分からなくて」
「まあ、結構難しそうなお菓子、ってことだね……」
手作りの凝ったお菓子か……。
「うーん、だと思います」
そうではないぞ、という女の意地か。
桜井はそのまま挨拶して部屋から出て行ってしまう。
次に副店長に上がるとしたら、絶対に桜井だな、と安心させてくれる、頼もしくも恐ろしい後姿だった。
なんだかんだで、しなければならないことはたくさんある。
が、その前に先週ある噂を聞いたことが、今日は特に頭から離れない。
数年前に社長の突然の思いつきで、選ばれし数名のみが参加できる一泊二日の慰安旅行が開催された。いわゆる、社長賞、というやつである。
社長、幹部、本社の精鋭、数名の店長、副店長、ただ1人部門長の桜井 眞依が参加。その時はまだ自分は本調子ではなかったため、選ばれなかった。
もし、次その機会があれば必ず選ばれるような仕事をしていこう、と思っていたことを、最近思い出すようになっていた。そして、その社長賞を今年あたり、設けるかもしれない、という噂も聞いた。
そういう本社筋の噂を聞くと、心がざわついて仕事にならない時があるので、なるべく聞かないようにはしているのだが、今回は少し失敗した。
しかし、よく考えれば、秘書の神条もその旅行に同行していたはずである。その神条はおそらく色々な知識や情報を兼ね揃えているはずであり、ここで伸びていくにも土台は充分できているようだった。今も、意外にも輪に入り、波にも乗っていて、自ら乱すことはしなさそうだ。
あとは、単に接客の向き不向きで多少左右されるくらい…だといいのだが。
「失礼します」
ふと我にかえり、後ろを振り返る。そこには、少し前に頭に浮かんだ桜井がそのまま立っていた。
「あっ、……」
思い出し、デスクの上のカゴの中から一枚のプリントを出す。
「はい。今月もお願いします」
テレビ、パソコンを扱うAV機器部門、エアコン、冷蔵庫を扱う白物家電部門、携帯電話、レジ、契約を扱うカウンター部門、倉庫部門、この中でただ1人、自分の部門のシフトを自分で作っているのは桜井1人だけだった。
「はい、分かりました」
桜井は丁寧に紙を受け取ってくれる。
カレンダーが書かれた紙には、手書きで数か所に個人名が書かれている。
それは、従業員が休みを申請してきた日の中で店長が決裁した日にちであり、それを元にシフトを作るのである。元々は店長である自分が全て作っていたのだが、カウンターは副部門長以外は全員女性であり、シフトで細かく女性達の動きを追っていかないと、現場の空気にさしつかえがある、ということで、本人に任せている。
女性達の内々ことは、男の自分では入り込めない所がある。部下を信じるという手でその辺りの面倒事は完全に任せっきりの状態だった。
「そういえば」
「はい」
桜井はプリントから視線を上げた。
「慰安旅行に行った時、神条さんいたよね?」
「あ、はい。いました…」
それがどうした、という表情である。
「いや、どうもしないけど、ふっと思っただけ」
「あぁ…。神条さん、昨日手作りのチョコタルト作ってきてたらしいですね」
「へえ。あそう……」
なんとなく嫌な予感がして、つい黙ってしまう。
「……」
桜井もそれを感じて、同じように黙ってしまう。
「……チョコタルトってどんなやつだったっけ?」
「えっ」
桜井は笑った。
「えっと、タルトの中がチョコ…上がチョコってやつです」
「タルトってどんなやつだった?」
「えーっとぉ、……クッキーみたいなやつです。その上に、チョコの……ムースみたいなやつ、じゃないですかねえ。…ムース、分かります?」
「分かる、ゼリーみたいなやつだね」
「ゼリー……」
桜井は若干首を傾げた。
「透明じゃないことは分かるよ。ゼリーじゃないか。クリームみたいなやつか」
「えーっと……、難しいですね」
桜井は笑って続けた。
「こうかなあというのは頭でも味でも分かるんですけど、どう説明していいか全然分からなくて」
「まあ、結構難しそうなお菓子、ってことだね……」
手作りの凝ったお菓子か……。
「うーん、だと思います」
そうではないぞ、という女の意地か。
桜井はそのまま挨拶して部屋から出て行ってしまう。
次に副店長に上がるとしたら、絶対に桜井だな、と安心させてくれる、頼もしくも恐ろしい後姿だった。