この人だけは絶対に落とせない

 狭い軽乗用車の車内の中で、桜井が助手席にいると思うと息もできないほどに緊張したが、「安全運転」という言葉が妙に頭を回り、冷静さを保とうと必死だった。

 店から小1時間ほどかかる場所なので、その間に世間話でもと思ったが、なかなか冷静さを取り戻せず、すぐに時間が経過してしまう。

 到着したのが21時40分。客が来るまでの時間はようやくゆっくり話ができる、と久川はサイドブレーキを引いた。

「あの…」

 まだ20分ある。だが、客が50分に自宅に帰ってくるところを早めの22時丁度と言っているのかもしれないので、ここで深い話を出すのは禁物だ。

「さっきの、関店長に報告っていうのはどういうことなんですか?」

「……あれね……」

 桜井は予想以上に重そうに口を開いた。

「ここのお客さん、関店長の知り合いの人らしくて。こっちの完全なミスで商品と金額間違えてたから……。担当は三好さんなんだけど、カウンターの子も2人で勘違いしたみたいで…。最初に、僕の知り合いだからって言われてたらしいの、2人共。だからね……」

 あぁ、そんなどうでもいいことか。

「で、関店長は?」

「うーん……、なんとも」

「……あの人は難しそうなところがありますね」

 関店長は全くつかめず、話も碌にしたことがない。

「……あ」

 まずこの話題でいって正解だった。すぐに客が帰ってきて、しかも社用車に気付きこちらに寄ってきている。

 2人同時にドアを開けて外に出て、お詫びからがらすぐに一通り終わる。 

 相手も人の良さそうな人で、玄関先で話が終わったので助かった。

 ものの5分でもう一度2人は車に乗り込む。発車して、客が見えなくなってから桜井はすぐに関に連絡を入れた。店ではない、関の携帯電話にそのままかけているらしいことに驚いた。自分との距離より、関との距離の方がかなり近い。それを感じずにはいられなかった。

「……関店長の連絡先知ってるんですか」

 深く考えずに聞いた。

「さっき聞いたの。もしお客さんと揉めたり、何かあるといけないから」

 頭に鍋が落ちてきそうなほどの衝撃を受けた。自分は三好の代役、桜井はカウンターの代役。その差はほとんどないと思っていたが、準備はこれ以上ないほどに万全であり、学ばなければいけないことがたくさんある、という市瀬のフレーズが頭を巡った。

「………」

 しばらくそれだけが頭を占領してしまう。

 だが、桜井が次の電話に出たことにより、沈黙が破られた。

「はい……あぁ。すみません……多分報告してたら23時過ぎるから…あ、はい、久川さん、送別会出ます?」

 突然話を振られ、何も考えていなかったので、声が出ない。

「……、桜井さんは?」

「私は出ません。出る前にもそう伝えてますから」

「あ、じゃあ僕もいいです」

「出ないそうです……ああ……」

 そうして電話は切れてしまう。

「安田さんと親しかったんですか?」

 安田、というのは今日の送別会の主役だ。

 だが、普通に話しかけてくれたことが嬉しすぎて、感動に飲まれてしまう。

「…………」

「………私は、高校の時から東都の倉庫でバイトしてるんですけど、その時から安田さんはいたので」

「高校の時からバイトしてるんですか」

 高卒で入社して上がった切れ者だとは聞いていたが、その下があったとは今初めて知った。

「はい。16の時からだから、もう12年です。だから安田さんとも12年」

「そうなんですか…。いや、俺は……」

 このタイミングでなんとなく、とは言いづらい。

「定年退職は、異動とは違うから会には出た方がいいかなと思って。でも、結局出られませんでしたけど」

 良い答えだ。

「そうですね…」

 安田の定年退職を惜しんでいるようだ。桜井は落ち着いている。良い雰囲気だ。店まではまだ30分近くある。残り時間が会話を後押しした。

「あの、この前言ったことですけど」

「……」

 桜井は何も反応しない。

「俺は、一生別れるつもりはない、そう思ってます」

「………」

「前回、関店長に邪魔されて、言いそびれたんですけど。俺はそう思ってますから。だから、別れたらどうしようとか、そういうことは考えないでもらいたいです」

「………、一生別れるつもりはないって、どういう意味?」

 若干攻撃的な質問の仕方だ。言い方が悪かったか。

「どういうって言葉通りです。一生、絶対に別れない。少なくとも、俺からは別れようとは思いません」

 いや、それだと桜井が別れると言い出したら別れないといけなくなるので、

「いや、別れません。別れさせませんよ」

 隙なく言い切る。

「つまり、聞くけど」

「はい」

 ちゃんと受け止めてくれているようで、声が上ずるほど嬉しかった。

「それは一生付き合うってこと?」

 はたと、一瞬考える。

「え、いや、結婚してそのままいるってことが言いたかったんですけど」

 自分の妄想を口にして、初めて気が付いた。

 プロポーズしてしまっている!

「………」

「………」

 お互い黙ってしまう。だが、気持ちはそうだし、言葉にしたらそうなっただけだし、覚悟はしているし。

「結婚…とか、嫌ですか?」

 間の抜けたセリフに言った瞬間後悔してしまう。

「いや……そんな……。結婚って、何年か付き合ってから考えるものじゃない?」

 だが、反応が良かったので安堵する。

「それは人それぞれだと思うけど。俺は桜井さんと付き合って結婚がしたい」

「それは、私が別れると嫌だとか言うから思いついたんでしょ?」

「思いついたわけじゃないけど、頭ではずっと考えてた。確かに、言われなかったら言わなかったとは思うけど」

 正直に言う方がいいと感じて、何も隠さなかった。

「ずっと……」

「ずっと」

 強く、押す。

「久川部門長ってさぁ」

「はい」

「すっごくモテない?」

 かなりテンションを上げて話題を変えてきたので驚いた。

「え? ……さあ、考えたこともないけど」

「嘘!! めちゃくちゃ人気あるの、知らないの?」

「人気? どういうことを人気というんですか?」

「だから……めちゃくちゃ告白されたりとか」

「滅茶苦茶告白されるって、告白はありますけど、滅茶苦茶なのはないですけど」

「いや、すっごい数の告白。あるでしょ。食事とか誘われるでしょ。社員からじゃなくて、お客さんからもあるでしょ」

「さあ。あんまり気にしてませんけど」

「さあって……何……」

 その声からは、どう答えるのが正解なのか分からず、戸惑う。

「いや、意味はないです。でも、それを言いだしたら、この前三好さんに食事誘われてたじゃないですか。今日も市瀬副店長はそれを心配して俺を代役によこしたんだし。

 だから、三好のことも心配ですけど、逆に市瀬副店長も下心がありそうだし。関店長もないとも言い切れない」

「ちょっと待って」

 何故か桜井は笑った。

「あはははははは」

 腹を抱えてわらっている。どこかに勘違いがあるとでも言いたいのだろう。

「……全て、思い込みかもしれませんけど」

 フォローしたつもりが、

「久川部門長って、そんなに喋るの??」

 思いもよらないセリフに、間が空いた。

「……普通ですけど」

「嘘。普段全然喋らないじゃん!」

 桜井はまだ笑っている。楽しげだからいいが、意味はよく分からない。

「え、2人になると喋れるの?」

「……桜井さんだからじゃないですか」

 普段、喋ることを制限しているわけでもなんでもないが、今は押すに限る。

「……」

 案の定、桜井は黙った。

「俺のこと、嫌いじゃないんだったら、騙されたと思って付き合ってみてください」

「……」

 桜井は少し俯いて頬に手を当てる。

「絶対に後悔はさせない。絶対に別れたりしない。一生一緒にいたいと俺は思ってますから」

「………強気だなあ」

 桜井は笑った。

 想いが通じたと、ほっと一息吐く。

「とりあえず、電話番号教えて下さい」
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