この人だけは絶対に落とせない
2月15日

 出かけたり……か……。

 あの日、綾子のセリフを聞いてから、ずっと考えていたことがある。

 それは、久川が出かけないことについてだった。

 仕事はしんどいと思う。

 寝ないと仕事にならないと思う。

 だけれども、考えてみればこの4か月、久川の家でセックスをしてそのまま寝て起きる以外にしたことなど、何もなかった。

 食事もまともにとったのは、最初のデートの時くらいで。大抵は休みの前日の夜に部屋に入ると、スポーツマンらしい体力のある激しいセックスに疲れて朝方寝る。そして目が冷めた桜井はなんとなくお菓子やパンをつまみ、久川が目を開くのを待つのだが、それが、時として夜になり、夜も昼と同じで2人でなんとなくつまんで再び行為に及んで…桜井は自分で家に帰る…その繰り返しだった。

 どこか行きたい場所があるわけではない。

 セックスも嫌いではない。

 もう本当に、私に飢えていたといわんばかりに、求めてこられるのも決して嫌ではない。

 むしろそれは、自分以外の女性には決して見せていない部分なのだが、それが、なんともつまらなく感じ始めていた。

 久川の魅力は、どこにあったんだろう、逆に遊園地や映画のデートに行ったとして、楽しいのだろうかとも考えてしまう。

 なら、そこに行って確かめてみればいいのだが、部屋に入った瞬間、久川はキスを求めてくるし、電話やメールで今日は違う所に、と提案してもいいのだが、向こうが後悔させないと言ったのだから、こちらから提案するのも癪だなと思う。

 ふっと息を吐き、売り場の奥に見える久川の頭を確認する。

 客と談笑しているんだろうな…。

 今日は桜井が早上がりで、久川が遅番の日だ。こういう日は自宅で寝ることにしているので、今日は家でゆっくりしようとシフトが出た時から決めている。

 定時の10分過ぎ。桜井はトランシーバーに繋がっているマイクのスイッチを入れて、

「桜井、上がります」

と周知させてからタイムレコーダーを押そうとする。

『あ、桜井さん待って』

 イヤホンから関の声だ。どこから発信したんだろうと、辺りを見渡すと、売り場ではない、事務所に繋がる裏の扉を開けて「店長室まで」と小さく言う。

 なんだろう。

 今の表情からは何も読み取ることができなかった桜井は、1分早く退社していれば関に捕まらなかったのではなかったかと思い、5分で話が済んだらラッキーだなとだけ思って店長室に入った。

 ドアは通常開け放たれており、今日もそのままだったので、「失礼します」とだけ言う。

「ドア閉めて」

 そう言われて初めて、関がいつもの表情ではないことに気が付いた。

「……」

 テーブルを挟んで、パイプ椅子が2脚置かれている。その奥側に腰かける関は、こちらを見ずに腕を組んで厳しい視線を放っている。

「……ん? ドア閉めて?」

 ふと顔を顔を上げてくれると、そうでもなかったのだが。

「はい」

 慌ててドアを閉め、下座に腰かけた。

 頭が真っ白になる。

 何を言われようとしているのかが、全く予測できていない。

「何かあった?」

 顔を見られるほどの余裕はなかったので、声だけで判別する。それは、思いのほか穏やかだった。

 だが、何を聞かれようとしているのか分からない。

 どう答えるのが正解なのか、分からない。

「なに、か……」

「うん……。しばらく見てたんだけどね、自分で気付くかどうか。だけど、全然気づかないから、カウンターが崩壊しない為に、僕から伝える」

「………」

 ほう、かい?……。

「1か月くらい前から、カウンター陣の中で桜井に対する愚痴が少しずつ出てきていたそうだ。いや、愚痴というのは誰でも言われるもの。僕だって言われていることくらい気付いている。

 だけど、それを気付いて処理しているものもあれば、ほおっておくしかないものもある。

 どんな愚痴か、分かる?」

「………」  

 何も考えられず、少しだけ首を横に振った。愚痴を言われていたことも全く知らない。

「シフトが自分中心だということ」

 そんなはずはない!!

「そう思う?」

 思わない。そんなはずはない。そんな風に作ってはいない!

「いいよ。言ってみて。そう思う? 故意にそう作った?」

「……。作っていません。自分の休みをそんな風に操作してはいません」

 関を信じて、テーブルを見つめて言い切る。

「うんそう。僕もそう思う。シフトは悪くない」  

 わけが分からなくて、ようやく関と目を合せた。だが、その目は見たこともないほど真剣だった。

「シフトが自分中心だと言われている時は、必ずそれらしい行動をしているものだ。部下を考えていない言動になりがちな時なんだよ」

 そんなことはないと思う。

「そこが女性陣の、カウンターの難しいところだったんだ。それを僕に教えてくれたのは、桜井だったんだよ」

 重要な言葉だったと思うが、あまりにも見つめられたので、息苦しくて目を逸らした。

「桜井が、シフトを作りたいと言った時、最初は僕が大体作ったのを微調整してくれたね。それですごくうまくいったんだ。それを僕も感じた。だから次からは完全に任せたんだ。

 だが今度はそれが仇になってる。心当たり、ある?」

「……」

 首を傾げた。

「僕もこんなことはあまり言いたくはない。それは、完全なプライベートなことだから。誰かが阻止していい事ではないし、規則にも何もない。

 だけど、カウンターが崩壊してしまう事だけは避けないといけないから言う。

 久川とのことに感づいている人がいる」

「…………」

 久川とシフトを合わせたと思われている! そんなことはない!でも……決して?……。

「だからといって、どれをどうすればいい問題ではない。シフトは特に問題はないし。桜井の言動も罰しないといけないほどではない。

 ここがカウンターの女性陣の難しいところ、だろ?」

 関はようやく背を引いた。

 女性陣が久川に嫉妬している…それだけのこと……だが、そういう微妙なとことが一番難しくやっかいな事だったのだ。そういうことがあるから、自分でシフトを作ると提案したのに……。

「すみません……」

 涙が溢れた。今まで自分は、何をやっていたんだろうと、その後悔の念しか浮かばなかった。

「何を謝ってるの」

 関は若干笑った。

「すみません、関…店長に手間を取らせました」

 一番最初にそれが浮かんだ。

「いや、これはただの社員指導という通常業務だよ。手間をかけられたわけじゃない。桜井は何も悪いことはしていないし、言動は常識の範囲内だった。

 たが、カウンターの気配に気づくのが遅かった。

 数人は市瀬副店長にそのまま愚痴っていたからね。柊が良かった。柊が僕に直接相談に来たんだ。

 市瀬副店長はおそらく、プライベートなことだから、と僕に報告しなかったんだと思う。自分で収める気だったんだね」

「別れます。2度とこんなことはしません」

「いや、そんなことを言っているわけじゃないんだよ」

 苦笑が漏れている。

「桜井にだってプライベートはある。誰にだって。特に、桜井も久川も独身だし、何の問題はない。

 だが、2人は東都の役職者で大勢の部下を率いている中心人物だということは、最優先事項だったかもしれない。そのつもりでやっていたとは思う。僕も柊に言われるまでは2人の事は気付かなかった。けど、周りはそうは見てくれてはいなかった……」

 こんなに業務が遂行出来ていなかったのに、関は責めることもしない。それが、余計胸を傷ませた。

「………すみません。今日も何も……考えていませんでした……」

 そしてより、正直に話せる。

「うん、そういう顔だった。僕が店長室に呼んだのに、随分平気な顔をしているなあと思ったよ」

 関が笑ったのと対照的に、桜井は眉間に皴を寄せた。

「……別れるのが最善の策とは思わないよ、僕は。僕もそうだけど、一生ここで働き続けるわけじゃない。65の定年がある。自分の将来も大事だよ」

 ………。

「……それは、私以外でもカウンター部門長が務まる人がいるという意味ですよね」

 言ってから若干答えがずれていることに気が付いたし、内心を吐露しすぎたと思ったが、仕方なかった。涙とショックで頭がよく回らない。

「……役職に囚われない方がいい。それを追いかけると、碌なことにはならない。責任は大事だけどね。

 ……まあ、よく考えてみて。

 今までの桜井は最高だったよ。自信に満ち溢れて、怖いくらいだった」

 これ以上ない褒め言葉に、身体が固まった。

「………」

「でも、確かに柊に言われる少し前から僕の中でも、部下を見ていないなというのは感じていた。だから、そこのフォローは僕がしていたよ」

 ぐさりと胸に刺さった。

「……すみません……」

「でもそれは僕の仕事の1つだから。

 というわけで、もう1つカウンターには崩壊の要素が隠れてる」

「…………」

 桜井は固唾を飲んで関の顔を見つめた。

「それは、自分で見つけること。今までもヒントは幾度か出した。きっと、今気付いている人は少ないはずだ」

「え………」

 思い出そうとしたが、色々なことが衝撃的すぎて、何も思い出せない。

「気付いた時には、異動がかかるに違いないし、それに気づいたとしてもどうすることもできないかもしれない。

 でももしこの案件が、異動に繋がらなかったら。その手法を僕も教えてもらいたいと思う。

 僕はこの案件で一度社員を異動させている。良い手法が思いつかなかったからね」

「………」

 頭は考えようにも材料がまるで出て来ない。

「涙は止まった?」

 言いながら、関は立ち上がった。

 この人は、すごい人だとそれだけを感じながら見上げる。
 
 だが、すぐにパソコンの方に向かって椅子に座り直すと、マウスを手で動かし始めた。

「……人の気持ちってすごいよね……」

 唐突で、意味が分からない。

 黙っていると、彼は振り返り、

「ん? もういいよ。ドア開けて」

と、何事もなかったかのように、いつもの顔に戻った。
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