この人だけは絶対に落とせない
「うるさい」
関は眩暈よりも、2人の会話の方が気分が悪くてつい地声を出してしまった。だが、病人を前にその言い草はなんだとさすがに久川に腹が立つ。
「……久川…何?」
腕で額を隠しながら、薄目を開けて、そちらを睨んだ。
「あ、いや…シフトを……」
「シフト? …そこ置いといて」
シフトってなんだ……。風見のことで修正した分の訂正箇所があったか。
「誰か送れるヤツ探して来ましょうか」
久川は意地でも言う。
「いい、いい。もう少し横になったら大丈夫だから。様子見て自分で帰るよ。ただの眩暈。寝不足だよ」
「……寝不足なんですか……」
桜井がしんみり言う。そういう声を出すとまた久川がうるさいので、
「単なる夜更かし」
言い切っておく。
「……桜井は何?」
桜井の方が多分重要なことだ。
「私は…ちょっとお話しようと思ってここに来たら、突然倒れたので」
「……話。何?」
久川はまだいる。
「……いえ。カウンターがなんとかうまくいってるということだけです」
「そう……あ、トランシーバー」
倒れた弾みでイヤホンが外れている。そのままイヤホンをする気にはなれなかったので、イヤホン端子を外した。
『……川さん、久川さん、現在地……え? さっきまでいたよね?』
電話係りの声だ。
「久川君、呼んでるよ」
久川はずっとイヤホンをしているのでとっくにその声は聞こえているが、どうしてもここから動きたくないようだ。
「……桜井さん、もう大丈夫だから」
「水でも買ってきましょうか」
「……」
確かに、そうしてほしい。しかし、久川が微動だにしない。
「久川君、呼んでるよ。行かなくていいの?」
「2人はまさか、付き合ってないですよね?」
あーもう、その話はうんざりだ。と思ったので、はっきり言う。
「そういう話はうんざりだよ。君の考えと一緒にしないでくれる?」
「……」
久川は黙った。
「社内恋愛をする人の気がしれないね」
さすがに、黙って立ち去った。
そこまで言われないと分からないか…。それくらいに、桜井に夢中なんだろう。
だから、社内恋愛は嫌なんだ。
「………」
予想通り桜井がしょげていたが、すぐに「水買って来ます」と立ち上がってくれる。
これなら、1人で倒れていた方が遥かにマシだった。
すぐに帰って来た桜井は、
「すみません…」
予想通り謝ってきた。
水が飲みたかったので、起き上がる。飲むと、幾分かマシになったが、もう一度横になる。その方が楽だ。
「桜井…」
「…はい」
返事が少し遅れた。
「前に仕事以外のことも考えるように、言ったね」
「はい!すっごく考えてました」
「うそ」
俺は思いもかけず笑ってしまった。
「え」
桜井は固まる。
「何を考えていたの?」
「え……と、し、食事に行ったり。とか」
「え? あぁ。休暇の過ごし方?」
「え、違ったんですか!?」
まさか、そんなことを指示するはずがないのに、と笑いが出た。
「そうじゃなくて」
俺は続けた。
「そうじゃくて。仕事中に仕事以外のことも気を付けるように、ということ。今の久川、すごい顔してたよ」
「…………」
「少し前も三好がしつこくしてたね」
「え、知ってたんですか?」
「三好を見てれば分かる。動きが変だ。休憩を取る時間がおかしかったり、意味もなく重要資料閲覧室にいる」
「………」
「そういうところにも、若干気配りは必要だ。ということ」
「……誘いには乗っていません」
「別に乗ったっていいんだよ。うまく関係を保てれば」
俺は、笑って桜井を見た。何かを考えているようだ。
「ただ、今みたいなこういう会話になると、みんながぎくしゃくしてしまう」
「………」
「難しいところだけどね」
「……じゃあ、関店長はどうしているんですか?」
逆に聞かれた。こういうことは初めてだった。
「誘われないように気を付けてるよ」
「どうやって?」
「全然興味ない、という風でいる」
「……それは、実際興味があるけど、それを隠している、という意味ですか?」
若干ズレたので
「話がズレてる」
桜井は分かりやすく、しょげた。
「……私も全然興味ないんですけどね……」
まあそれは、俺から見たら分かるけど、本人が分かっていないことが多い。
男女の差かな…と思わないでもなかったので、
「うん。桜井的に気にしているんなら問題ない。それ以上どうしようもない」
短く言い切る。
「……それだったんですか……。仕事以外でのことって」
「そうだよ。休暇のことじゃないよ」
俺は、再び笑った。
「関店長って」
「ん?」
「休みの日って何してるんですか?」
面倒な話になったなと、思いながら、
「寝てる」。
「寝る以外のことはしてないんですか? 例えば、買い物行ったり」
「もちろん、買い物とか掃除とか、生活的なことはしてるけど、それ以外は寝てる」
のに寝不足も不自然か。
「関店長……ってどういう人なんですか?」
思いもかけない下らない質問に、また笑った。そろそろ立ち上がって、話を切り上げたい。
「何? どういう人って、俺に聞く?」
「……ほんとに遠い存在で、今ここで座ってるのが不思議なくらいです」
「えー?」
改めて、顔をよく見た。なんだか難しいことを考えているようだ。
「……」
俺は身体を起こし、水を飲んだ。水を飲むことで体調が回復されたようだ。脱水に近い症状だったのかもしれない。
「さあ…」
と、立ち上がった瞬間、
「うわっ!」
市瀬が戸口で驚いた。
「ど、どしたんですか!?」
「…あぁ、眩暈がして……あれ? なんで私服?」
俺は市瀬の驚きにはまともに答えず、桜井の服に気付いて聞いた。
「いや、そんなことより…ここで寝てたんですか!?」
「あぁ、ちょっとね。後で片しとくよ」
「いや、それはいいんですが」
市瀬が桜井を横目で見ている。それに気づかない桜井は、まだ何か考え事をしていた。
「びっくりしたー……」
何をびっくりしたのかは知らないが、市瀬は胸を押さえている。
俺は、毛布は後でいいかと、とりあえずパソコンチェアに腰かけた。
「あの」
桜井がつと口を開いた。
「あ、市瀬さん、用があるんなら先にどうぞ」
「え、いや、通りすがっただけで……」
「関店長」
「……」
俺は、何やら桜井が言いたそうだったので、市瀬に目配せする。
彼もそれに気づいてすぐにドアに向かったが出て行く前に桜井は切り出した。
「私が副店長になる必要性は、ありますか?」
ちょっと驚いた。
「になる、というのは変かもしれないけど、目指す、という意味です」
本社から降りてきた花端以外で、女性副店長は今だかつていない。
だが、もしなれるとしたら、桜井が一番だとは思っていた。
しかし、なるとしたら、部門長を育ててからでないとそこからは離れられない。自分にはその必要性があるかというのを問うているのだ。
「……」
市瀬は足を止め、こちらを見ていた。桜井もそれを承知の上のようだった。
そこで、俺はきちんと切り出す。
「役職に囚われてはいけないよ。いつも自分の仕事をする、ということが大切だ。気付いた時に副店長になっていれば、その時の自分の仕事をすればいい。
あれは、目指す、というものでは正直ない」
「………」
「桜井、考えすぎ。もっと力を抜いて。
僕と話をするとそれに振り回されるでしょ」
桜井は、簡単に頷いた。
「100回考えて、分からなかったら聞きにおいで。今の桜井はそれで充分」
100回というのは単なる適当だ。無駄に話を聞きに、言いに来るな、という牽制だ。久川のことも鬱陶しいから。
仕事以外のことを考える、というのはこういうことだが、今はまだ分かるまい。
より難しそうな顔をする桜井を尻目に、ふと、パソコンの横に置いてある、一枚の紙に目がいった。
「……」
久川が頼んでもいないのに勝手に作って来たAV機器コーナーの来月のシフト表だった。目を通さず、紙を裏返す。
市瀬が先に出て、次に桜井も挨拶をしてから、外へ出た。
関はタバコを吸いたい気持ちを思い出したことに、若干イライラしながら、パソコンをスリープから戻しながら、コーヒーボトルのキャップを捻った。