この人だけは絶対に落とせない
比奈野 美紀の場合
3月15日

 そこに、いるはずもない女子高生がいたことに、関はまず驚いた。

 思わず停止し、スタッフルームの入口を見つめる。

 ポニーテールに膝上丈のスカート。白く細い足の先は真っ白い短いソックスに革靴。

「関店長!」

 次に名前を呼ばれ、近づいて来られたことで、身動きが出来なくなる。

「あの、少しお話が…」

と、言われて初めて気が付いた。倉庫担当の学生バイト、比奈野だ。

 普段、倉庫用の制服、ポロシャツにチノパンだし、倉庫要員は別の休憩室があるため、上に上がって来ることはほとんどない。しかも、学生バイトとして雇用できるのは倉庫だけなので、このエリアに学生がその姿でいることは、きわめて稀なことであった。

「……、何かな?」

 驚いて色々考えすぎたせいで、頭は停止したままなかなか解凍できないが顔は簡単ににやけた。

 だが、比奈野が俯いたまま動かないので、これは社員によるセクハラでも起きたんじゃないかと即嫌な予感がし、慌てて、店長室に入った。

 ドアは開け放っておく。

 座るように促し、対面してパイプ椅子に腰かけた。

「……あの、この前はありがとうございました」

「………」

 何のことだか、全く思い出せない。

「………あの、あの時、私が接客したのは初めてだったんですが」

 そこまで言われてようやく思い出した。

 そういえば、倉庫からたまたまカートを探しに売り場に上がって来た比奈野は、老夫婦にエントランスに展示してある110インチのテレビが欲しいと言われ、そのまま接客したのだった。

 冷静に、住所、名前、電話番号、入れ替えテレビがあるか、など聞けてはいたが、在庫のところでようやく詰まって、トランシーバーのマイクに、「エントランスのテレビの配達って、通常の配達で大丈夫ですか?」と周囲に問うたのだった。

 偶然カウンターにいた俺が、宙で覚えている型番で在庫と配達日を確認した上ですぐに側まで近づきフォローする。というか、その後は俺がご主人と契約したのだが、それでも比奈野は奥さんと談笑を続けてくれていた。

 なかなか良い人材を見つけたと思ったのがたった一週間前なのに、既に忘れてしまっていた。

「ああ、あれは本当に良かったよ。みんなすごく褒めてた」

 確か、今高3で、来月大学に上がってもバイトで来てくれるんだったか。倉庫のシフトも作ってはいるが、学生バイトも数人いるので、気にも留めたことはなかった。

「その…あの、で!」 

 比奈野は、一旦自分の中で整理をつけたのか、肩を上げてから下げた。

「私、売り場に行きたいんです!」

「……」

 思いもよらない要求に、ただ顔を見つめた。

 モテるだろうなあ、彼氏は同級生だろうか。いや、こういう可愛い子に限って年上の変な彼氏がいたり…。

「うん。じゃあ倉庫の部門長に打診してみるよ。売り場のピッキングの作業ができるように」

「ほんとですか!? それってこの前みたいに接客してもいいってことですか!?」

  笑顔がまた可愛い。

「そうだよ。お客さんがいたら、どんどん話しかけてあげて」

「やったー! 私、春休みずっと入ってるんで、春休みからでもいいですか!?」

 両手をお祈りポーズで組んでみせる。そんな風にお願いされたら、誰も何も断れないだろう。

「もちろんいいよ。じゃあ、今から一緒にお願いに行ってみようか」





4月20日

 比奈野は毎日よく頑張って仕事をしていた。倉庫人員なので、休憩室は下のままだが、売り場に顔を出すようになり、周囲に男性従業員が取り巻くことが増えた。

 あの若さであの可愛さなら、男が放っておかないのは仕方ない。その上愛想は良いし、分厚い制服越しに胸の大きさが分かるくらいスタイルもいい。

 しかも、目が合うとにっこり笑顔で挨拶をしてくる。もしも、自分が後…15歳若かったら考えないでもなかっただろうが、生憎もうそんな年ではない。

 現実にしっかり足を着けている自分は、もうさらりと挨拶も返せるし、あからさまに姿を確認しないし、目で追うこともない。

 既に比奈野のことを忘れながら仕事をした一週間後、12時出社のその日。

 いつも通り決まって2時間前の10時に店に到着し、ベンツから降りたと同時に前方から駆け寄ってくる比奈野の姿が見えた。

「どうしたのー?」

 まだ遠いが話しかける。腕時計を確認した。遅刻の報告か。

「てんちょー!」

 笑いながら走って来ている。どうやら制服ではなく、膝上のパンツだった。素足の先は早くもサンダルで、爪先が黄緑色だ。

「分かんないので、待ってました!」

 笑いながら、手持ちの薄いバックをまさぐっている。しかし、胸にはショルダーバックの細い紐が食い込んでおり、一秒で目に焼きつけた。

「はいこれ! 昨日焼いたんです!」

 笑顔で目の前につきつけてきたのは、小さな紙袋。焼いたということは、

「えっと、何?」

 笑いながら、聞いたがお菓子だろう。

「クッキーです!」

「ありがとう。頂くよ」

 紙袋を受けとり、この場で開けるかどうか、少し迷う。

「なんか、上は大人の人ばっかりで行きにくいから外で渡そうと思って待ってたんです。でも、夜は遅いから…最近、独り暮らし始めたんですけど、でも、12時まで待つのはちょっと怖いかなあと思って」

 そこに、下心があるのかどうか、慎重になる。いや、若いから、ただ作ったのが余っただけという可能性もある。

「そうだよ。こんな所で遅くまでいたらダメ。高校生じゃなくなったけど、シフトは今のまま、21時までのままでいいからね」

「…でも、昨日部門長に、22時でもいいって聞かれたから、ハイって答えました」

 あからさまに、しょんぼりしたので、

「ダメダメ。今の人数で回せるはずだから」

 言いながら、ダメなんだろうかと思う。もし大学生のバイトなら、別に22時でも全く問題ないはずだ。

「良かったー、帰り怖いんです!」

 またお願いポーズだ。しかし、それにしても胸元にバックの紐が随分食い込んでいる。

「あのお、で、良かったら、そのクッキーの味がどうだったか聞かせてもらってもいいですか?」

 あ、ここで開けるのが正解だったか。

「うんいいよ」

 と、紙袋を開けた瞬間、

「あー! 今じゃなくて! 今はダメです! 恥ずかしいから」

 ……可愛い顔だ。よく見れば、今日は髪の毛を下している。

「じゃあどうするの?」

 笑いながら聞いた。素直に楽しい。

「えっとお。店内だと全然近寄れないんで、メールとか交換してもらってもいいですか?」

 それは、どういうことかとも思うが、あまり期待してもいけない。なんせ若い子はこういう事が普通だ。

「近寄れないの」

 笑顔をそのままで、スマホを取り出す。

「近寄れないですよー。全然。もう神様みたい。あ、ありがとうございます♪」

 比奈野も同じようにスマホを取り出して、ラインの交換を要求してくる。

「神様って……。あ、電話番号でいい?」

 職場の人間とはラインではなく、電話番号とショートメールと決めている。

「あはい……。やった、良かった。もう今日ドキドキでしたよー」

 比奈野は大事そうにスマホを手で包みながら笑顔を向けてきた。

「何で?」

 あえて聞いてやる。

「えー、だってえ。店長すっごいカッコいいんだもん」

 ストレートなセリフにさすがに照れた。

「これだって、すっごい高い車なんですよね」

 ここでようやくベンツの力が発揮された、と苦笑が漏れる。

「…まあ、安い車ではないね」

「いいなー、乗ってみたい」

「……また今度ね」

 さすがにそれ以上は危険だ。頭の中が一気に現実に戻り、警報が鳴りはじめる。

 俺は腕時計をあからさまに確認すると、

「ありがとう。遠慮なく頂くよ」

と、颯爽と足を前に出し、そのまま駐車場を横切った。





 クッキーは店長室で1人素早く食べ、ゴミはスタッフルームのゴミ箱に捨てた。メールはもちろんしていない。

 いくら女子大生で可愛らしいといえど、足をすくわれる可能性がもちろんあることを承知している関は、何度か比奈野との会話をトレースしたものの、後はいつも通り過ごした。気にしなければ、比奈野が出社しているかどうかなど何にも関係ないし、それを気にしたくもなかった。

 比奈野がクッキーを手渡すくらい、また、車に乗りたいというくらい好いてくれているというだけで早くも満足点に達し、後はどうでもよくなる。その先など望みたくはない。

 そう思いながら、その日の仕事帰り、ベンツのドアを開けようとした瞬間、

「店長」

 その、声が聞こえて振り返った。





 比奈野 美紀はベンツに乗り込もうとするその、黒いスーツの姿をもう一度まじまじと見つめた。

 次元の違いしか感じない。

 先週渡したクッキーはどうだったか、味を教えてもらう予定でメールを交換したけど、その返事は何もない。

 大人だし、仕事が忙しくてそんなどころじゃないんだとは思う。

「ああ。この前はご馳走様。ありがとう。美味しかったよ」

 優しく微笑んでそう言ってくれてほっとしたが、どうしてそれをメールで早く言ってくれなかったんだろうと思う。

「……あぁ……」

「売り場、どう?」

 話しかけてくれたことが嬉しくて、顔を上げた。店長は、車に背を持たせ、余裕の表情でこちらを見つめてくれている。

「えっ、あっ……あ……いい感じです」

 頑張ってくれているところを見てくれているのかと思ったが、実際は何も知らないようでがっかりする。

「そう。無理はしないでね」

 なんかもっと喋らなきゃ、なんかもっと喋らなきゃ…。

「お疲れ様でした」

 言うなり、そのまま車に乗り込んでしまう。

「………」

 駐車場に取り残された比奈野は精一杯頭を下げて見送った。

 そりゃそうだ。相手は元営業部の現店長…。ベンツだし。彼女はいるだろうし。200人の従業員のうちの1人なんてちょっと覚えるだけだろうし。

 先週、大学で同じクラスになって、一番仲良くしている友達のマヤに関店長が好きだという話をしたらクッキー作戦でいこうとなって、それは成功したような気はするけど…。でも結局メールはくれなかったし、今も社交辞令っぽかったし…。

 すぐにラインを開いてマヤに

「話しかけたらクッキー美味しかったって言われた」

と報告する。と、すぐに既読がつき、

『良かったじゃん!』

「なんでメールくれなかったのかは聞けなかった……」

『大人だし、メール面倒なタイプなんじゃないの? うちのお父さん42だけど、メール全然しないよ』

 そういえば、それは前も聞いた。それより関店長の方が7つ下。それほど世代は変わらないのかもしれない。

「次、どうしよう…」

 打ち込んで、空を仰ぐ。

『ケーキにする? 成功するかどうか分からないから、一回練習はした方がいいよ』

 そんな問題じゃない気がした。

「なんか、大人で。すっごく優しくて、だって、ベンツだよ!」

『告白する? でも、され慣れてるかなあ…』

「絶対慣れてる。めちゃくちゃモテるってバイト先の人も言ってた」

『でもさあ、もう告白しかなくない?』

「絶対ダメな気しかしないけど…」

『意外に! 意外に会社の外では人格変わるかもよ』

「人格変わっちゃダメじゃん」

『めちゃくちゃ優しくなるかも!』

「今だって優しいんだって!」

『だから、会社だと、人目が気になるとか! どうする? 家つきとめる?』

 ………。

 それは、アリかもしれない。

「で、近くのコンビニでばったり会うの?」

『若干ストーカーだよね』

 若干ではない。

「どうしよう。次、さりげなく家聞こうか?」

『でもそれで、近くで会ったらストーカーじゃない?』

 確かに。

『家遊びに行ってもいいですか、とか聞く?』

「そんな雰囲気じゃ、全然ないない!!」

『じゃあ、社員の人を巻き込んで家に遊びに行くとか』

「いや多分、そういう感じじゃない」

『……もう告白する?』

 それ以外の手法は正直ないような気がしてくる。

「どこで?」

『ここに来て下さいとか言ったら? 近くのカフェとか』

 来るか来ないかも分からない。

「どうやって? メールしてみようか。このカフェ行きませんか、とか」

『うんうん! で、行ったら行ったでいいし!』

「メール返信なかったらどうしよう…」

『とりあえずしてみようよ、あ、待って。今家?』

「もうすぐ家着く」

『私もそっち行くから。行ってからメールしよう!」



 そこまで話は詰まっていたが、マヤが自転車で、ものの5分で到着してから、一時間以上は悩みまくった。とりあえず、ノートを一枚破いて、下書きする。

 この近くのカフェでオシャレなところは一件しか知らないので、それは悩むことはない。

≪お疲れ様です。良かったら今度、2人でリーフカフェ行きませんか?≫

 内容はともかく、一番怖いのは、返信がなかった時どうするかだ。教えてもらったのは、電話番号だけなので、ショートメールだと既読しているかどうか、開封しているかどうかも分からない。

 それならいっそ、電話で話したらどうかという案になる。

 だがしかし、行かないと言われた時、切るしかないし、告白にも繋がらないし…なんだかんだ悩みに悩んで結局、翌朝になった。

 コンビニで朝ごはんを買ってから、話題は盛り返し、告白するなら最高の状態で告白したいけど、告白する場所が見つからない、電話で呼び出しても来そうにない、電話で告白は避けたいなど、様々な難所を乗り越えることができず、結局、家を突き止めるという、無関係なところに着地してその日は学校へ向かった。

 夕方、バイトへ向かう。
 
 店長のシフトは完全に把握しているので、今日は早番だ。といっても、早番でも遅番でも会うことがないのがほとんど。周囲の人で何かを店長に確認しなきゃと言ってる人は誰もいない。店長が話をしているのはもっと上の部門長とか、副店長とか。どんな事をどんなタイミングで話しているのか全く分からない。

 大人っぽいことがもっとできればいいんだけどなと思いついた時、再び売り上げを上げたらどうだろうという単純明快な答えが頭に浮かんだ。

 そもそも、あのテレビを売った成果が今に繋がっているんだし、再び同じことが起これば!!と思って接客した途端、破滅した。

 ジューサーの在庫を補充していた時、この商品の使い方はとお客さんにたまたま聞かれて、慌てて興奮した状態で、商品のことなど分かりもせず、なんとなく展示品をセットしてコンセントに電源を突っ込んでスイッチらしきボタンをオンした。

 途端、刃がきちんとセットされておらず、蓋もゆるんでいたので、蓋が飛び、刃も飛んだ。

「え、ちょっと、ちょっと!! 誰か来てあげて!!!」

 お客さんの声が聞こえる。どうしよう、失敗した。左手からはめちゃくちゃ血が出てる。血でミキサーが汚れてる…。

「うわっ!! 申し訳ありません!」

「タオルタオル! いいからこれ使ってあげて!!」

「お、お客様いいんですか?」

「安物だからいいから!!早く早く!…大丈夫? 血、止まらないんじゃない? すぐ病院行った方がいいわよ!」

「大丈夫か? しっかり!」

「市瀬副店長、新しいタオルです!」

「ああ、サンキュ!」

「縫わないといけないんじゃない?」

「……お客様、ハンカチはまた何かでお返ししますから」

「いいからいいから、先病院、病院!」

「俺が送ってくわ。悪いけど、中津川、支えてやって車まで連れて来てくれるか?」

「分かりました」




 病室のカーテンの中で、まるでわが子の寝顔を見ているような気持ちになっていた市瀬は、仕事がサボれた事を若干ラッキーと思いながらうたた寝を繰り返していた。

 比奈野は傷は2針ほど縫った上、血を見て眩暈を起こし、少し前からベッドで眠っている。

 血は床や商品にも飛んでいたので片付けも大変だろう。特に、血で汚れたミキサーはよく拭かなきゃいけないし、値下げもしておいた方がいい……。

「ん、目が覚めた?」

 ふと自分の目が覚めると、先に比奈野の目が開いていたので、慌てて聞いた。すぐに、はいと返事をしてくれて、ほっとする。

「2針縫ったって。覚えてる?」

「はい……」

 目鼻立ちがはっきりとしているがまだあどけない、子供の顔だ。

「家族の人に連絡して、迎えに来てもらう?」

「独り暮らしだし、ちょっと遠いし。連絡すると心配するのでいいです。自分で帰ります」

「うーんと、じゃあ、関店長がもうすぐしたら来るから、送って行ってもらおうか」

「え!?」

 比奈野は分かりやすく顔をにやけさせ、しかもそれをすぐに布団で隠した。

「なに~、その顔」

 さすが関店長、モテる男は違う。

「な、なんでもないです…」

 布団で声がくぐもってしまっている。

「…店長はさすが人気あるなあ」

 俺ももう少し何かが違っていたらそうなっていたのかと宙を見た瞬間、バッと布団が上がって、

「店長って人気ありますか!?」

 しかもすぐに身体を起こそうとしたせいで、負傷した手をシーツに着いて、痛がっている。

「慌てなさんなって」

 俺は笑いながらも、

「そりゃあ人気あるよ、モテモテ」

 とは思うが、実際浮いた話は聞いたことがない。まあ、ひた隠しにしているんだろう。

「なんかぁ、私なんか、次元の違い感じちゃいます…」

「次元…」

 年と階級は確かにそうだ。

「次元ねえ…」

「どんな人が好みだとか、知ってます? 彼女いるかとか、結婚はしてませんよね?」

 はあー、こんな風に言われてみたい。

「どんな人が好みだかは知らないけど。彼女も知らないなあ、あと何だった? 結婚はしてないと思うけど。そういや聞いたことないなあ」

 あの人は、とっつきやすく話をすることもあるんだが、得体の知れない奥底があるのは確かだ。

「なんか知ってることあったら、教えて下さい!」

「えー? …うーん、昼は日替わり弁当」

「えっ、あのみんなで一括注文のやつですか?」

「うんそう。いつも注文してる」

「なるほど! どうしよ。メモしとこかな」

「そんなとこメモしてどうするの?」

 俺は笑ったが、比奈野は構わずポケットのスマホを取り出して、昼は一括弁当とメモる。ああ、恋ってこういうことだったのかもしれないな。

「飲み物は何が好きですか?」

「えー? ……何飲んでるんだろう……、あ、店長室にいる時はよくコーヒー飲んでる。何のコーヒーかは知らないけど、ボトルだよ」

「ボトルコーヒー……」

「ねえ、それ、メモしてどうするの?」

「何かの時に役立つはずです」

「…ふーん。後は…そうだなあ、車はベンツ」

「それは知ってます」

「R230ね」

「えっ、種類ですか?」

「うん、SLクラスのR230」

「知らなかったー」

 車体の後ろに大きく表示してあるのにと、さすがに笑いがこらえきれない。

「あのー、絶対誰にも言わないでもらえますか?」

「うん? 大丈夫だよ」

 俺は涙目を擦りながら、簡単に言う。

「私、この前店長にクッキーあげたんです。自分で作って」

「おおー、やるねえ。それで?」

「で、メール交換したんです!」

「うん、そんで?」

「連絡きませんでした…。味のことはメールでって約束…約束はしてなかったかもしれませんけど」

 そうだろうなと思う。

「…まあでも、美味しかったでしょ」

「その後話したら、美味しかったって言ってくれて。でもなんでメールくれなかったんだろうって」

「……まあ、そんなもんだよ」

 ひた隠しにしている奥底があるものの、常識人であることに半分ほっとした。

「友達のお父さんが42歳なんですけど、関店長37歳じゃないですか。で、大人はあんまりメールしないって言うからそうなのかなあって」

「うーん、というよりやっぱり従業員同士の中で、あんまりむやみにメールをするのはよくないと思ったんじゃないかな。
 それに…多分、直接言った方が良いことは直接、でも逆に忘れそうな…例えば数字に関するようなことはメールで、とか」

「……じゃあ、結局どれに当てはまったんですか?」

「…まあ、僕が店長なら、いや、副店長でも同じ状況ではメールは返さないね。1人だけ特別扱いするのはよくないから」

「……それって、じゃあ!この店にいる限りは永遠に距離は縮まらないってことじゃないですか!」

 永遠とはまだ大袈裟な。

「え、まあ…。いやでも、それ以上に比奈野さんが未成年だからね。そこじゃないかな、まずは。あの、本気になったらこっちが訴えられるからね。車に乗せただけで誘拐とか言われかねない」

「えー! …あー、だからかあ…ベンツに乗せて下さいって言ったら、また今度ねってなんか流されたんです」

 また今度ね、とはえらくリップサービスしたもんだ。

「へえー。…まあそうだろうね」

「二十歳まで待つとか? どうしよう、告白するなら、二十歳超えてからした方がいいですか?」

「今いくつ?19?」

「18です」

 俺の一言で若い2年も待たせるわけにはいかない。

「いや、そんな…それは気持ちの問題だろうけど…」

「えーあー、なんか、色々、はあ………」

 項垂れる姿に、なんと声をかけるのが適当なのか難しい。

「でも、待ってたら、他の人に取られるかもしれないし。でも、早くしたら警戒されるかもしれないし…」

「…気持ちが合う時は合うもんだよ。年齢に関係なく」

 当たり障りなく言うに限る。

「じゃあ、今すぐでも、今日でもいいと思います?」

「き……えー、俺に聞く?」
 
 笑って誤魔化そうとしたが、

「私、めっちゃ考えて、苦しいんです」

「…………、そう」

 俺もそんなに好かれたいもんだ。

「みんななんか、店長と色々話してるけど、私なんか全然話しも出来なくて。みんな何話してるんですか?」

「え、さあ…。僕は色々あるけど」

「私の周りで店長と直接話してる人はいないです。話してる人はだいたい上の人です」

「まあ、そうかもしれないけど、業務的にはそれが多いけど、そればっかりでもないでしょ。スタッフルームでもみんなに混ざって弁当食って会話してるよ」

「いいなー、私もそういうとこ行きたい……どうしよう……。バイト辞めた方がいいのかな」

「えっ、何でそうなるの??」

「従業員だったら距離が縮まらないんだったら、バイト辞めたいけど、辞めたらもう接点なくなるし」

 あんまり思い詰めさせてもいけないが。

「………さあ……どうだろうねえ……」

「答え…出ませんね……どうしよう…今日告白しようか……」

「まあそんな焦らなくても。まだまだ若いんだし」

 結局はそこに終着してしまう。

「若くたってすぐにおばさんになりますよ。私だってこの前まで高校生だったのに、もう大学生ですよ? 一般料金なんだから」

 ふと、人影に気付いてこちらからカーテンを開けた。

「ああ、お疲れ様です」

 関店長を確認するや否や、比奈野を見てしまった。彼女は、俯いて、顔を赤らめている。

「ええと。2針縫って、眩暈を起こして寝てたんですが、さっき目覚めたところです」

「大丈夫?」

 関は、さすがに心配して近寄り、顔を覗き込んでいる。

 それに反して比奈野は顔を手で覆ってしまい、小さく「大丈夫です」と答える。

「……大丈夫なの?」 

 関は眉間に皴を寄せ、本当に心配そうにこちらに問うた。

「えっ、あ、それは大丈夫なんですけど」

 笑うしかない。

「家族の人はいつ来るの? 僕が説明するから、市瀬さんは戻って…」

「あ、いや、家族には心配かけるのが嫌だし自宅が遠いそうで。だから、家まで送って行った方がいいかなという話になったんですが」

「…大丈夫かな。比奈野さん、家族が心配したら、必ず説明するからね。今日は責任を持って家まで送るよ」

「あ、あのっ!」

 比奈野は、意を決したようにシーツを、包帯が巻いていない右手でだけ掴んで唇をへの字にした。

 まさか、ここで告白する気か!

「べ、ベンツでですか!?」

 思わず吹き出しそうになる。

「え? ああ、そうだね。あ、この前乗りたいって言ってたね」

 リップサービスをしたように思えたが、特に意味はなかったようだ。まあ、ベンツなら乗せて下さいとよく言われるのかもしれない。

「じゃあ、退院手続きとか必要なのかな」

「あ、えっと。看護師の人呼んできましょうか…いや、帰るって伝えときます。それで僕はそのまま帰りますから」

「あ、お願いします。それから、監査項目のデジカメの高額在庫が狂ってるのがあって、今それを精査してたんだけど分からなくて。悪いけど、とりあえず後お願いします」

 なんだか嫌な顔つきだ。社員を疑っているらしい。

「………分かりました。また電話で連絡するかもしれません」
 



「あ、左ハンドルだから」

 そう言いながら、右助手席のドアを開けてくれる。

「……はぃ……」

 乗り込む時、頭をぶつけないように気をつける。ちゃんと、ドアも閉めてくれる。すごい…執事みたいだ。

「えっと、自宅どこだっけ?」

 どうしよう、めちゃくちゃ近くにいる……。

「いつも自転車で来てたっけ?」

 どうしよう…、なんか、コーヒーの匂いがする……。

「あ、自転車どうする?………自転車」

「………えっ!?」

 目が合った。左手首をハンドルに乗せて待ってる、完全な大人だ!!

「おーい」

 店長は笑いながら、ピッピとボタンを押し、冷房を入れてくれる。

「シートベルトしてね」

「あっ、はい!!」

 シートベルト、シートベルト……ど、どうしようなんか、引っかかって出て来ない!!

「あれ? 引っかかってる?」

 背後から腕を伸ばし、シートベルトを引っ張って、カチャリとロックをかけてくれる。

「とりあえず店の……」

 もう身体がシートベルトの方を向いたまま硬直して動かない。

 どうしよう、今すっごいコーヒーの匂いがした!

「ど、どうしたの?……」

「ぜ、全然大丈夫です!!」

 どうしよう、全然大丈夫じゃない!!

 けど多分店長は出発するのを待ってくれているので、なんとか深呼吸し、顔を両手で覆って、真っ直ぐ前を向いて腰かけ直す。

「手、大丈夫なの?」

「あっ!」

 目を開けて思い出す。そういえば掌二針縫ったんだった!

「頑張って接客しようとしたんだねえ」

 思いもよらない言葉に、顔を上げた。その、穏やかな表情が視界に広がっている。

「あ、あの、あの、関店長!!!」

 もう、後の事も先のことも、今のことも全部わけが分からなくなって、ただ今、言わなければいけないことだけが、目の前に降りてくる。

「その、あの、私、その、もう苦しくて…」

「え゛?」

 体調のことを勘違いされた。

「あの、違うんです! その、私……私、その私……、私、その……」

「………」

「その、すっごい迷ったんです! 言うかどうか、もうバイト辞めちゃった方がいいのかどうか」

「……今日は大変だったね……」

 急に業務的になった気がした。そうじゃない!はっきり、ちゃんと言わなきゃ。

「何もないんですけどその、…その、ずっと同じバイトだと、距離が近くてダメかなとか」

「………」

「その、同じお店にいると、距離を近づけられないかなとか。店長は大人だから、私みたいな人とは距離置かなきゃいけないのかな、とか。色々、本当に色々考えたんです! でもきっと、私はバイト辞めたくないし、今日だって、怪我の功名というか、全然痛いとか思わなかったし」

「………」

「だから、その……。私なんか全然ダメだと思うけど、でももう苦しいから……」

「……から?」

 大丈夫、言っていい。

「関店長のことが、好きです」


「随分長い前置きだったねえ」

 店長は笑いながら、緊張を一気に吹き飛ばした。

「だっ、だって!! だって……だって…あの副店長が……名前なんだったっけ……」

「さっきの?」

「はい」

「市瀬副店長」

「あ、はい。市瀬副店長が、未成年を車に乗せたら誘拐だからダメだとか言うし」

「何の話をしてるの」

 店長は顔を顰めて呆れた声を出した。

「そ、私はそうは思わないんですけど! ベンツに乗せて下さいってお願いしたら、断られたって言ったら…未成年は誘拐だとか言って」

「いや、未成年だから誘拐とか、そこまで思わなかったけど、単純に自分が気を許した人じゃなかったら車に乗せないでしょ」

「……」

 ということは、今日はそういうことなんですか!?

「他に、何か言ってた? 市瀬副店長は」

 今どういう気持ちでそれを聞いてきているのか、全く分からない。

「えっと……。告白するのは気持ちだけで充分だって。私、未成年だとかいうから二十歳まで待った方がいいですかって聞いたら…」

「そう……、……」

「そのあの、そのあの、その……あの……」

「何?」

 店長は笑ってこっちを向いた。

「そのお、あの…私は本気で言ってるんですけど!」

「…、その気持ちはありがたく受け取っておくよ」

 とかいうことじゃなくてぇ。

「その、違うんです。付き合って欲しいんです!!」

「………」

 目が合う。合っている。逸らしちゃダメだと思った。逸らしたら負けだと思ったのに、その顔がカッコよすぎて、我慢できずに逸らした。

「付き合うってねえ、それこそ僕、犯罪でつかまっちゃうよ」

「いや、そんなことにはさせません! 誘ったのは私ですから!」

「……」

 黙ったので、ここぞとばかりに攻めておく。

「本当に、絶対私が守りますから!」

 本気で言ったのに、吹き出されて大爆笑された。

「なんで笑うんですか、嘘だと思ってるんですか?」

「いやー、ごめん。嘘だとは思わないけど」

「本当に、私は絶対そんな、警察沙汰にはさせません!」

「そうかあ、僕のことをそんなに好きでいてくれる人がいたとはねえ」

「いますよ、います! だって市瀬副店長も、店長はめちゃくちゃモテるって言ってましたよ!」

「へー、そう」

「その、だから…その…私は絶対にだから!………誰よりもきっと、私が店長の事を大切にできると思うし……」

「……」

「色々、大人の女の人は上手かもしれない。私はそれに負けるかもしれないけど……負けないように頑張りますから……」

「……何の話をしてるの……」

 まだ笑ってくれてはいる。

「それは…だから……その、私は大人の人と付き合ったことがなくて。色々分からないことがいっぱいあるとは思うけど」

「……」

「でもきっと、好きだって気持ちがあれば、なんでもできると思うから…」

「……」

「少しだけでもいいんです! 彼女にならせて下さい!」

 思い切って頭を下げた。

「ちょっとちょっと……」

 店長は、両腕を支えて身体を起こしてくれる。

「彼女ねえ…」

 店長はガラスの外の遠くを眺めた。

「だから…。無理にとは言いませんけど、でも、ちょっとでも……でももし、彼女がいるんだったら、ちょっとでもいいんです」

「こらこら。何を言ってるの」

 若干怒った風にこちらを向いたのが分かったので、すぐに俯いた。

「でもだって、それくらい、店長の事が好きなんです。ほんとに、ちょっとでもいいんです」


 



 そこまで言われて頭まで下げられて、引ける男がいるのか、逆に聞きたいくらいだった。

 正直、店の中での恋愛関係にはうんざりしていたし、自分だけはその種の誘いには絶対に乗らないと早くから決めていたが、比奈野の場合は全く違っていた。

 言うなれば、倉庫の若いバイトに役職が絡んだ駆け引きなど存在せず、完全に店とは関係のないからだ。

 そう決めてしまえば簡単だった。

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