この人だけは絶対に落とせない
病院へ行った後、メールでお礼を言うと、ちゃんと返ってきた。
だから、用意してあった、今度リーフカフェに行きたいです!、と送信すると。いいよ、と返事が返ってきた。
勇気を出して良かったと思った。
怪我をして良かったと思った。
涙が出るくらい、『いいよ』というその3文字が嬉しくて、そのメールはそのまま保存した。
翌日もシフト通りバイトに出たが、倉庫作業が当たっていたので同時刻に出社しているのにも関わらず一日中姿を見ることはなかった。関店長とカフェに行くということを大声でみんなに自慢したい気持ちになったが、多分それは秘密じゃないといけないような気がしたので、我慢していつもとは違う手に負担のかからない検品作業に集中した。
夜になって、カフェ、いつ行きますか?とメールをした。けどまだ業務時間中は返事が来ない。家に着いたら来るかな、寝る前には来るかなと思って、朝方まで待っていたけど結局来なくてそのまま寝た。
次の朝になり、昼になる。昼はもう出社しているので返ってこないだろうなと思っていたらその通りで。
ようやく通知音が鳴ったのは、その日の夜。
『いつでもいいよ』
嘘!と思う。だって、明日だって出社だし。でももちろん、にやけ顔はおさまらない。それに、今なら返信してくれるかもと思って、急いで、
『店長に合せます!』
と返信したのが間違いだった。
そのまま、返信は3日もなかったのだ。
さすがに3日待てばもういいだろうと痺れを切らして、
『今度の休みはどうですか?』
と切り出す。またしばらく返ってこないんだろうなと思った。だって、次の休みは明後日だし。
『その日は予定があるから、また今度』
数時間後に来た返事がそれだった。信じられないくらいショックだった。
これってどういうことなんだろうと思った。
その予定って何だろう、本当なんだろうかと思った。
また今度っていつなんだろう。
行くとかいいつつ、行きたくないんだろうかとも思う。
どうしようか、もうメールとかしない方がいいんだろうか。
あの時好きだって言って受け入れてくれたから、カフェに行こうって話なんじゃなかったんだろうか。
デートが延期になっただけなんだろうか。
それとも、迷惑なんだろうか。
今度っていつですかって聞いてみようか、次の休みはどうですかって聞いてみようか。でもあんまり聞くと迷惑なんじゃないだろうか。
また今度でそのまま流れて終わるんじゃないだろうか。
でも……。
絶対終わらせたくない! だから…電話…してみようか。
でも、すごく冷たくされたらどうしようか。
なんのこと? みたいに言われたらどうしよう。
……でも。
ずっと悩み続けるよりマシだ!!
比奈野は意を決して、電話をすることにする。
21じ上がりの23時なら大丈夫だと思う。
きっと自宅だと思う!
と、ちゃんと予測を立てて電話したのに、出てくれなかった。逆に、早く帰って寝たんだろうか。それともやっぱり彼女がいたんだろうか。今は彼女のところなんだろうか。
どうしようか、駐車場に行って車があるかどうか確かめてみようか。でも、もしなかったら…。
と考えに考えていた23時半、着信音が鳴った!
関 一 店長 と出ている。
「もしもし!!」
叫ぶように出た。
『ああ、ごめん。さっきはまだ店にいて』
仕事中だったんだ…。背後の雑音から、まだ車内だということが分かる。
「いえ…お仕事中すみません……」
なんか、色々聞こうと思ったけど、電話で繋がった瞬間、どうでも良くなる。
『どうしたの?』
どうって! どうって……、どうって……。
「あの……今週のお休みの日は用事があるとかで…」
『ああ、うん。ごめんね』
随分簡単だ。もう言うことがなくなる。
「……」
『え、カフェに行きたいんだったっけ?』
「あ、……別にカフェじゃなくてもいいんですけど!」
そうか、場所の問題だったか!
『うーん、ドライブでも行く?』
「え、い、いいいいんですか!?」
『何回いい言うの』
笑っている。電話だと声が低くて、本当に大人みたいだ。
「えっと、あの、その!」
『うん』
「その……、あの……」
どうしよう…これって付き合ってるんですか、って聞きたい……でも……面倒と思われるのが嫌だ。
「……いつにします!?」
それよりその方が大事だ。
『うーん。次休みいつだったかな』
「あ、来週の木曜日です!」
『……』
うわっ!!めちゃくちゃストーカー感出した!!
『来週の木曜何日だっけ?10日だよね?』
「あ、はい……」
『じゃあいいよ』
「えっ、ほんとですかー!? でもちなみに、じゃあってなんですか?」
『え? じゃあ?』
「いやその…、今、じゃあいいよって言ったので、来週の木曜とか10日とかなんか関係あるのかなあって」
『ああ。7日に大事な会議があるからその後がいいなあと思っただけで。それまでは休みの日も色々資料揃えとかなきゃいけないし』
あ、そういうこと……。
「大事な会議ってなんですか!?」
『うーん、営業部長に怒られる会』
言いながら店長は笑った。
「営業部長に怒られるんですか!?」
『そうだよ』
簡単に言って笑う。
「関店長って元々営業部にいたのに、営業部長に怒られるんですか?」
『うん。そういうのは関係ないからね』
へえ…なんか、大変だ。
「大変なんですね…。資料ってなんですか?」
『うーん。色々』
「私じゃ分からない事ですか?」
『あんまり身近じゃないかもね』
「でもいいです! おしえて下さい!」
店長は笑って、
『売上数字とか、……まあ、お店全体のそういうことだよ』
「へえー……」
どれも難しそうだ。
「大変なんですね」
それに尽きるし、それ以外のことは何も分からない。
『まあね』
「……で、10日はどうしましょうか? どこに集合にします?」
『迎えに行くよ』
店長は笑いながら言ってくれる。どうしよう。それって絶対付き合ってるよね?
「あ、はい……。今、どのあたりですか? 家ってどこか聞いてもいいですか?」
『家? 僕の家は中央区だよ。店から20分くらいのとこ』
「……1人暮らし、ですか?」
『うん』
同棲してる人とかいないんですか!?って聞いていいかな。
「……」
ずっと1人なんですか、とか…。
「あ、結婚…してませんよね? え、いや、その、しててもあんまり関係ないんですけど!」
『どういう意味よ』
店長は笑った。
「独身だよ。結婚はしてない」
絶対モテるよなあ……。自信を無くすしかない。
「その……お店の人に告白とかされませんか?」
『されないよ』
店長は簡単に笑ったが、謙遜してるだけだ、絶対。
「……」
どうしよう。自信を持っていいんだろうか。それともなんか、違うんだろうか。
「その……店長……」
『んー?』
運転の片手間なのが分かる。
「10日、楽しみにしてます」
『はいはい』
「何時集合にします?」
『何時でもいいよ』
それって、楽しみにしてくれているんだろうか。でも、一応決めとかないと、流れるのだけは絶対に嫌だ。
「……10時でもいいですか? 朝の」
『うん、いいよ、10時ね』
「……まだ少し先ですね」
『うんー、そうだね』
私のセリフに応えているだけのような気がする。なんか、店長の方から言ってほしいのに。
「……今日は何時に寝るんですか?」
『帰ったら寝る』
なんか、疲れていそうだ。
「…じゃあ、そろそろ切ります。お疲れ様でした」
『はい、お疲れ様。お休み』
電話はした。約束は取り付けた。別に嫌で日にちを伸ばしたわけじゃないことが分かったのに……。
大きな空しさだけが残ったような、そんな気になった。
5月9日
それまで10日間、電話もメールも待っていたけど来なかった。こちらから、何かしようかなとずっと考えていたけど、会議があるとか言ってたし、色々考えすぎて、結局しんどくなるだけだった。
でも、今日だけは大丈夫だろうと待ちに待って、昼を過ぎてからようやく、
『明日10時にお待ちしてます』
と送信する。
これで、返って来なかったら嫌だなとそれだけを考えていたけど、ようやく24時になって、『了解』と返って来た。
明日、会ったら色々聞こう。色々言おう。
5月10日
目が覚めた時、9時半少し前だった。あー、目覚ましかけるの忘れてたなと思いながらもとりあえず急いで起き上がる。朝食を食べる習慣はないので、着替えて出るだけだ。一番手前にあった、紺色のパンツにとりあえず選んだ白のティシャツ。白のシャツはアイロンがかかってなかったので、白のカーディガンを羽織る。
腕時計は外出用のカルティエ。半年前のボーナスで買った。
それでも、車に乗り込んだのは55分。比奈野のアパートまでは20分。
とりあえず、遅れると連絡は入れておく。
あぁ、デートに遅れても何の緊張感もない。この上なく楽だ。
今日は少し渋滞しているようなのでどの道を走ろうか、と考える。
適当に飯を食って、買い物でもして帰るか。特にプランも考えなくてもどうにでもなる。
「ああ、ごめんね」
着くなり、笑顔で寄って来てくれる。今日の私服は胸元が随分開き、強調されている。早くも大胆にきたなと思いながら、車に乗せ、自らも乗り込む。
「あ、シートベルトしてね」
今日はシートベルトが自分でかけられたようだ。
ベルトの出し口が硬くなっているのかどうか見ようと思って忘れていたが、大丈夫そうだ。
「さあて、どこ行こうか」
とりあえず、車を出す。中央区付近は誰に会うとも限らないので、できれば田舎の西区方面にしておきたい。
「どこか行きたいところ、ある?」
「えっ、いえっ、特にないです…」
時刻は10時半…1時間半走ってランチにするか。
ナビの音声ガイダンスに
「西区 ランチ」
と呼びかける。2秒で、ポンと電子音が鳴って、ずらりと店名が液晶に表示される。
「何か食べたい物ある?」
コースとビュッフェは面倒なので、イタリアンくらいでいいか。
「い、いえ。特に……」
再び音声ガイダンスに、
「イタリアン」
と呼びかけると、12軒表示された。さっと見ると、上から2軒目が駐車場が広い。
「ここでいい?」
と、聞きながらナビを設定する。下道で1時間。着くと11時半過ぎるか…店が混むな。
ブルートゥースのイヤホンをセットし、液晶から電話番号を検索、通話にする。
「……もしもし、12時で2人予約を……」
とりあえず、ランチの目途が立ってから、一息ついて、コーヒーが欲しいことに気が付く。ドライブスルーに寄るか。
「コーヒー買うね」
運よくすぐに店があったので、そのまま駐車場に乗り入れる。
マイクに向かって、ブラックコーヒーと、確認を取ってからカフェオレを注文し、受け取る。
受け取る瞬間、18歳はカフェイン禁止じゃないよな…とよぎったが、そんなはずはない。
「はいどうぞ」
「あっ、ありがとうございます! いつもここで買ってるんですか?」
「いや。いつもはコンビニ。今日は比奈野さんがいるからね」
「………」
黙ったので、よくよく見ると、赤面して固まっている。
今何を言ったかもう一度トレースしてから、まだそういう感覚なんだなと思い直す。
「さあて、行こうか」
素直に、そう思う。
コーヒーのおかげで頭も冴えてきた。
隣は美人でスタイルもよく、従順で言うこともない。とにかく、擦れてない、色々な駆け引きや計算が必要ない。真っ新だ。
「あ、あの……その……色々、考えたんですけど」
何か面白いことを言い出すのかなと、期待して、
「いいよー。どうぞ」
「その、あの。私、思ったんですけど! その…そのこれは…、付き合ってるって、そういうことで、そういう解釈でいいんですか?」
「え、じゃなかったら、どういう解釈で今日ここにいるの?」
「えっ、い、いや! 私的にはそういう解釈なんですけど!」
「僕もそういう解釈だよ」
素直に思っていることを言う。
「……付き合ってるんですか?」
「そうだよ」
「……そ、そうなんですか……」
若干落ち込んでいる気がしたので、
「……なんか、変?」
「いや、変じゃないですけど……」
何か、言いたそうだ。
「何に引っかかってるの? 言っていいよ」
そのまま黙り続け、優しく、引き出してやる。
「えっと……。その……どうして私だったんですか?」
思わずハンドル操作を間違えそうになるほど、吹き出してしまう。笑いが止まらなかった。
「な、なんで笑うんですか!」
「え、だって……」
危ない。手元が狂いそうだった。
「……そんなに笑います?」
「いやー、ごめんごめん。いや、……だってねえ。まあ、どうしてもってお願いしてくれたから」
「それは、そうですけど。でもきっと、そう言った人なんて星の数ほどいたでしょうから」
「いないよ!」
「いません?」
「いないいない。頭下げられたことなんてないよ」
「本当ですか!? たくさんの人に土下座されたんだろうなと思ってましたけど」
「土下座、そんなまさか! まあ、思いが伝わった、というかね」
「えー! あの一言で伝わったんですか!?」
「そうだよー」
「……じゃあ、じゃあ聞きますけど」
「はいはい」
「じゃあ、メールとかしても良かったんですか?」
「うん、いいよ」
「……ラインはダメなんですか?」
「ああ、いいよ。そうだ、教えてなかったね」
「そんな、そうだって、今気付いたことなんですか!?」
「普段使わないからね。特別なんだよ、僕的に。ラインは」
そういう事にしておこう。
「……普段は電話番号しか教えないんですか?」
「うん。僕のラインを知ってる人は、会社の中にはいない。……多分ね」
「多分って何ですか? 昔の彼女がまだ持ってるかもって意味ですか?」
「いや、社内で付き合ったことはないからそれはないけど、何かのはずみで湊部長…さんが持ってたかなあとか思ったくらいで」
「湊部長…この前怒られたっていう部長ですか。女の人ですか?」
「いやいや。……湊部長っていうのは、正確には今は部長じゃなくて、前部長なんだけど。その人は昔からお世話になってたから、若いころに教えたかも。あ、男だよ」
「……知らないです……」
あの、知らぬ者などいない湊部長を、いとも簡単に知らないと言ってくれる。なんとも心地よい。
「今まで社内で付き合ったことはないって言いましたけど、前にお付き合いしてた人はどんな人だったんですか?」
「…………。まあ、長く生きてるからね。結婚したことはないけど、付き合った女性は何人かはいるよ」
「……」
「でも、社内にはいないから。社内で恋愛すると碌なことにならないからね」
「……私のこともそう思ってるんですか?」
「いや。思わないから、今ここにいるんだよ。だからベンツに乗せたんだよ」
自分の中では面白い言い回しだったが、それが比奈野には伝わらなかったようだ。
「…社内で恋愛すると、碌なことにならないっていうのは、どういう意味なんですか?」
「うーん、仕事に私情が入るとやりづらいって事」
「でも私は?」
「うん、まあ、同じ店にいるけど、全然接点がないから。じゃなかったら、こうやって一緒に出掛けたりしないよ」
「そうなんですか…。それって信じていいんですか?」
「うんいいよ。信じて欲しくないことは、言わない」
紳士に言ったが、それを18歳の比奈野がどう取ったかは読めない。
「あの」
「うん」
「メールしてもいいですか」
「うんいいよ」
「毎日してもいいですか」
「うん、…すぐは返さないかもしれないけど」
「……それでもいいです。返ってこなくても、メールしてもいいですか」
「うん、読むのは読んでる」
正確に話す。
「電話してもいいですか?」
「うん。出られる時は出る」
「出られない時ってどんな時ですか?」
「仕事の時…とか。かな。お風呂とかトイレとか」
「じゃあ、出ない時は、お風呂かトイレと思っていいんですか?」
「え? まあ、気付かないこともあるかもしれないけど…」
「他の女の人のところに行ってるとか、そういうことは予測しといた方がいいんですか」
わけの分からない質問に笑えた。
「それは一体どういう質問なの??」
「だから……電話でないけど……他の女の人の所に行ってるのかもしれない…っていう心配はした方がいいかどうかっていうことです」
それは、例えそうだとしても誰も言わない気がするが。
「しなくていいよ。僕はそういう事は嫌いだから。いろんな人のそういう修羅場を見てきたからね。それだけはしたくないと思ってる」
「……いろんな人の修羅場。友達とかですか」
「うんまあ……そうだね」
武之内とその妻依子、同じ副店長であった柳原がパッと頭に浮かんだ。あぁいうことだけは絶対にしたくはない。
「……したくないと思ってるって、思ってるっていうのはどのくらい思ってるんですか?」
「ははは、いや、しないよ。しない。しません」
言い切らされて、苦笑した。
自分が18歳から19歳になる頃はどうだっただろうと何度も思い返してみる。
将来のことなど深くは考えていないのに、遊びに行くことだけは念入りに考え、思いついたことを口に出し、後先など考えているはずはなかった。
それを思うと今37歳の自分と、19歳になった美紀が同じ視線でいるとは考えられないはずなのに、恋というのは不思議でそれを同じ視線で見てしまっている。
年は18も離れている。親子ほどだ。その身体に触れるなど、最初は犯罪だと思っていたのではなかったか。
なのに、「関店長のためなら、何でもしますから」という言葉に簡単に騙されるかのように、どんどんハードルを乗り越えていってしまっている。
最初のキスは頬。もちろん、もう、すぐに身体を求めにいくような年ではない。
かといって、美紀は焦らされるのが分かるような年でもない。
ゆっくりと、ゆっくりと、良いタイミングだけを見極めて、手をつないだり、肩を抱いたり、腰に手を回したり。
女性に触れるのが数年ぶりだったが、見切り発車することなく密着度を徐々に上げ、裸になり、手で触れ、舌で触れ、全身で繋がる。
美紀の良いように、それだけを考える。
若い身体と体力を持て余さないように、十二分に満足させる。
美紀が満たされて、初めて自分が満たされる。
最初は震えていた身体も、すぐに大胆さを増し、あっけらかんと自ら誘いかけてくるようにもなる。
それもまた良し。
何せ、美紀の見る世界で、俺に勝る者はない。
全ては俺中心で回り、美紀の知る中で俺は頂点にいる。
7月半ば。たったふた月の間に変貌を遂げた美紀は、視線から言葉遣いから何から何まで変わり、
「はじめちゃん、帰ったら絶対エッチだよ。…嫌じゃないでしょ?」
と、ずる賢く頬にキスをかまし、簡単に大人の階段を駆け上っていった。
若い身体は簡単に果て、数回果ててようやく体力が落ちてから、自らも満足させ、眠りに落ちる。
眠る前も最初はこちらがキスをして、それを受け止めるだけだったのに、今や逆になるほどだった。
「はあ……」
吐息を耳に吹き込みながら、両腕で抱きしめてくる。
俺は、それに応えて、長い、良い香りの髪の毛を撫でた。
「来週さあ、監査で出張でしょ?」
「うん」
北大店へ監査に行くのだが、そこで店長数名が集まり食事会が開かれることになったので、仕事上がりで一泊することにしている。
「その前の日は普通? 日曜日」
「うん? うん…だと思う。シフトは何だったか忘れたけど。あ、早上がりだな。多分」
「その日、同窓会だから。高校の時の」
嫉妬心は全く芽生えなかった。どうせ俺の自慢をするに決まっている。友達の間でも、ベンツで年上のカッコいい彼氏といつも紹介しているのは知っている。
「うん、どこで?」
「南区ちょっと遠いから友達の家泊まるの。浮気なんてしないからね」
先手を打ったつもりか、唇にキスを落としてくる。
「疑ってなんかないよ」
同じようにキスを返す。
「はじめちゃんはさぁ、同窓会とかないのー?」
「さあ。連絡はないけどね、あっても行かないかな。興味ない」
腕枕した髪の毛の先が頬をくすぐり、手で少しよける。
「えー、もしかしたら、初恋の人がすっごい美人になってるかも!」
「………関係ないよ。初恋がどうだったかも忘れたなあ」
幾度となく店内で浮気、不倫の話を聞いたこと、またそれをそれなりに対処してきた自分にはトラウマのようにそれが残っている気がする。
「……まあ、そんなことはいいから。日曜、楽しんでおいで」
7月15日
1年のうちで忙しい週というのはだいたい決まっているが、その予測できる週のうちの1つが今週だとも言える。
日曜は早上がり、月曜は北大店で監査、火曜は食事会からの宿泊休み、水曜遅出、木曜早出、金曜早出、土曜遅出、日曜早出、月曜休み。
更に翌週は加速度を増す。そんな中、美紀からの連絡がないことに気付いたのは、金曜の夜家に帰った時だった。
水、木曜は火曜の監査で予想通り指摘された、デジカメの高額在庫の差異を詰め直していたせいで、気付かなかった。
売り場が忙しいということは倉庫も忙しいから、と気遣ってこちらから連絡しようとして気付いた。
美紀から連絡がない事は今までにない。まさか、どこかで事故にでもあって!とも思ったが、欠勤の報告がなかったので出社はしていたことになる。
「………」
日曜、同窓会に行くと言っていた。
いやしかし、そんなはずはない。
思い切って電話をかけてみる。
が、出ない。
時刻は23時を回っている。寝ている可能性だってある。でも、俺から電話をかけて、出なかったことは一度もない。
「………」
そんなはずはない、そんなはずはないのに、それらを即予測し、既に覚悟をしている半分冷静な自分がいた。
相手は19歳。自分が19の頃は、明日のことなど考えずに遊ぶことだけを念入りに考えていた。そうだった……。
関は部屋の真ん中で立ち尽くし、ただ茫然と床の一点を見つめる。
振り返るのが怖くて仕方ない過去を一瞬で闇に葬り、やり場のない思いにもただそっと、蓋をした。
一番ショックだったのはその瞬間だった。
その翌日の土曜、売り場に姿を見せた美紀とちらと視線が合ったはずだった。
だがそれを、確実に逸らしたのが分かった。
その瞬間、予測が現実に変わった。
その時、何も感じなければ良かった。
その時、何かの間違いだと嘘を上塗りすれば良かった。
だが生憎、今までの経験がそうはさせず。俺は簡単に全てのことを悟り、そしてあっさり離れていく美紀を追いかけようともせず、ただ、一秒でも早く元の穏やかな生活に戻ろうと、溜息を吐いた。
だから、用意してあった、今度リーフカフェに行きたいです!、と送信すると。いいよ、と返事が返ってきた。
勇気を出して良かったと思った。
怪我をして良かったと思った。
涙が出るくらい、『いいよ』というその3文字が嬉しくて、そのメールはそのまま保存した。
翌日もシフト通りバイトに出たが、倉庫作業が当たっていたので同時刻に出社しているのにも関わらず一日中姿を見ることはなかった。関店長とカフェに行くということを大声でみんなに自慢したい気持ちになったが、多分それは秘密じゃないといけないような気がしたので、我慢していつもとは違う手に負担のかからない検品作業に集中した。
夜になって、カフェ、いつ行きますか?とメールをした。けどまだ業務時間中は返事が来ない。家に着いたら来るかな、寝る前には来るかなと思って、朝方まで待っていたけど結局来なくてそのまま寝た。
次の朝になり、昼になる。昼はもう出社しているので返ってこないだろうなと思っていたらその通りで。
ようやく通知音が鳴ったのは、その日の夜。
『いつでもいいよ』
嘘!と思う。だって、明日だって出社だし。でももちろん、にやけ顔はおさまらない。それに、今なら返信してくれるかもと思って、急いで、
『店長に合せます!』
と返信したのが間違いだった。
そのまま、返信は3日もなかったのだ。
さすがに3日待てばもういいだろうと痺れを切らして、
『今度の休みはどうですか?』
と切り出す。またしばらく返ってこないんだろうなと思った。だって、次の休みは明後日だし。
『その日は予定があるから、また今度』
数時間後に来た返事がそれだった。信じられないくらいショックだった。
これってどういうことなんだろうと思った。
その予定って何だろう、本当なんだろうかと思った。
また今度っていつなんだろう。
行くとかいいつつ、行きたくないんだろうかとも思う。
どうしようか、もうメールとかしない方がいいんだろうか。
あの時好きだって言って受け入れてくれたから、カフェに行こうって話なんじゃなかったんだろうか。
デートが延期になっただけなんだろうか。
それとも、迷惑なんだろうか。
今度っていつですかって聞いてみようか、次の休みはどうですかって聞いてみようか。でもあんまり聞くと迷惑なんじゃないだろうか。
また今度でそのまま流れて終わるんじゃないだろうか。
でも……。
絶対終わらせたくない! だから…電話…してみようか。
でも、すごく冷たくされたらどうしようか。
なんのこと? みたいに言われたらどうしよう。
……でも。
ずっと悩み続けるよりマシだ!!
比奈野は意を決して、電話をすることにする。
21じ上がりの23時なら大丈夫だと思う。
きっと自宅だと思う!
と、ちゃんと予測を立てて電話したのに、出てくれなかった。逆に、早く帰って寝たんだろうか。それともやっぱり彼女がいたんだろうか。今は彼女のところなんだろうか。
どうしようか、駐車場に行って車があるかどうか確かめてみようか。でも、もしなかったら…。
と考えに考えていた23時半、着信音が鳴った!
関 一 店長 と出ている。
「もしもし!!」
叫ぶように出た。
『ああ、ごめん。さっきはまだ店にいて』
仕事中だったんだ…。背後の雑音から、まだ車内だということが分かる。
「いえ…お仕事中すみません……」
なんか、色々聞こうと思ったけど、電話で繋がった瞬間、どうでも良くなる。
『どうしたの?』
どうって! どうって……、どうって……。
「あの……今週のお休みの日は用事があるとかで…」
『ああ、うん。ごめんね』
随分簡単だ。もう言うことがなくなる。
「……」
『え、カフェに行きたいんだったっけ?』
「あ、……別にカフェじゃなくてもいいんですけど!」
そうか、場所の問題だったか!
『うーん、ドライブでも行く?』
「え、い、いいいいんですか!?」
『何回いい言うの』
笑っている。電話だと声が低くて、本当に大人みたいだ。
「えっと、あの、その!」
『うん』
「その……、あの……」
どうしよう…これって付き合ってるんですか、って聞きたい……でも……面倒と思われるのが嫌だ。
「……いつにします!?」
それよりその方が大事だ。
『うーん。次休みいつだったかな』
「あ、来週の木曜日です!」
『……』
うわっ!!めちゃくちゃストーカー感出した!!
『来週の木曜何日だっけ?10日だよね?』
「あ、はい……」
『じゃあいいよ』
「えっ、ほんとですかー!? でもちなみに、じゃあってなんですか?」
『え? じゃあ?』
「いやその…、今、じゃあいいよって言ったので、来週の木曜とか10日とかなんか関係あるのかなあって」
『ああ。7日に大事な会議があるからその後がいいなあと思っただけで。それまでは休みの日も色々資料揃えとかなきゃいけないし』
あ、そういうこと……。
「大事な会議ってなんですか!?」
『うーん、営業部長に怒られる会』
言いながら店長は笑った。
「営業部長に怒られるんですか!?」
『そうだよ』
簡単に言って笑う。
「関店長って元々営業部にいたのに、営業部長に怒られるんですか?」
『うん。そういうのは関係ないからね』
へえ…なんか、大変だ。
「大変なんですね…。資料ってなんですか?」
『うーん。色々』
「私じゃ分からない事ですか?」
『あんまり身近じゃないかもね』
「でもいいです! おしえて下さい!」
店長は笑って、
『売上数字とか、……まあ、お店全体のそういうことだよ』
「へえー……」
どれも難しそうだ。
「大変なんですね」
それに尽きるし、それ以外のことは何も分からない。
『まあね』
「……で、10日はどうしましょうか? どこに集合にします?」
『迎えに行くよ』
店長は笑いながら言ってくれる。どうしよう。それって絶対付き合ってるよね?
「あ、はい……。今、どのあたりですか? 家ってどこか聞いてもいいですか?」
『家? 僕の家は中央区だよ。店から20分くらいのとこ』
「……1人暮らし、ですか?」
『うん』
同棲してる人とかいないんですか!?って聞いていいかな。
「……」
ずっと1人なんですか、とか…。
「あ、結婚…してませんよね? え、いや、その、しててもあんまり関係ないんですけど!」
『どういう意味よ』
店長は笑った。
「独身だよ。結婚はしてない」
絶対モテるよなあ……。自信を無くすしかない。
「その……お店の人に告白とかされませんか?」
『されないよ』
店長は簡単に笑ったが、謙遜してるだけだ、絶対。
「……」
どうしよう。自信を持っていいんだろうか。それともなんか、違うんだろうか。
「その……店長……」
『んー?』
運転の片手間なのが分かる。
「10日、楽しみにしてます」
『はいはい』
「何時集合にします?」
『何時でもいいよ』
それって、楽しみにしてくれているんだろうか。でも、一応決めとかないと、流れるのだけは絶対に嫌だ。
「……10時でもいいですか? 朝の」
『うん、いいよ、10時ね』
「……まだ少し先ですね」
『うんー、そうだね』
私のセリフに応えているだけのような気がする。なんか、店長の方から言ってほしいのに。
「……今日は何時に寝るんですか?」
『帰ったら寝る』
なんか、疲れていそうだ。
「…じゃあ、そろそろ切ります。お疲れ様でした」
『はい、お疲れ様。お休み』
電話はした。約束は取り付けた。別に嫌で日にちを伸ばしたわけじゃないことが分かったのに……。
大きな空しさだけが残ったような、そんな気になった。
5月9日
それまで10日間、電話もメールも待っていたけど来なかった。こちらから、何かしようかなとずっと考えていたけど、会議があるとか言ってたし、色々考えすぎて、結局しんどくなるだけだった。
でも、今日だけは大丈夫だろうと待ちに待って、昼を過ぎてからようやく、
『明日10時にお待ちしてます』
と送信する。
これで、返って来なかったら嫌だなとそれだけを考えていたけど、ようやく24時になって、『了解』と返って来た。
明日、会ったら色々聞こう。色々言おう。
5月10日
目が覚めた時、9時半少し前だった。あー、目覚ましかけるの忘れてたなと思いながらもとりあえず急いで起き上がる。朝食を食べる習慣はないので、着替えて出るだけだ。一番手前にあった、紺色のパンツにとりあえず選んだ白のティシャツ。白のシャツはアイロンがかかってなかったので、白のカーディガンを羽織る。
腕時計は外出用のカルティエ。半年前のボーナスで買った。
それでも、車に乗り込んだのは55分。比奈野のアパートまでは20分。
とりあえず、遅れると連絡は入れておく。
あぁ、デートに遅れても何の緊張感もない。この上なく楽だ。
今日は少し渋滞しているようなのでどの道を走ろうか、と考える。
適当に飯を食って、買い物でもして帰るか。特にプランも考えなくてもどうにでもなる。
「ああ、ごめんね」
着くなり、笑顔で寄って来てくれる。今日の私服は胸元が随分開き、強調されている。早くも大胆にきたなと思いながら、車に乗せ、自らも乗り込む。
「あ、シートベルトしてね」
今日はシートベルトが自分でかけられたようだ。
ベルトの出し口が硬くなっているのかどうか見ようと思って忘れていたが、大丈夫そうだ。
「さあて、どこ行こうか」
とりあえず、車を出す。中央区付近は誰に会うとも限らないので、できれば田舎の西区方面にしておきたい。
「どこか行きたいところ、ある?」
「えっ、いえっ、特にないです…」
時刻は10時半…1時間半走ってランチにするか。
ナビの音声ガイダンスに
「西区 ランチ」
と呼びかける。2秒で、ポンと電子音が鳴って、ずらりと店名が液晶に表示される。
「何か食べたい物ある?」
コースとビュッフェは面倒なので、イタリアンくらいでいいか。
「い、いえ。特に……」
再び音声ガイダンスに、
「イタリアン」
と呼びかけると、12軒表示された。さっと見ると、上から2軒目が駐車場が広い。
「ここでいい?」
と、聞きながらナビを設定する。下道で1時間。着くと11時半過ぎるか…店が混むな。
ブルートゥースのイヤホンをセットし、液晶から電話番号を検索、通話にする。
「……もしもし、12時で2人予約を……」
とりあえず、ランチの目途が立ってから、一息ついて、コーヒーが欲しいことに気が付く。ドライブスルーに寄るか。
「コーヒー買うね」
運よくすぐに店があったので、そのまま駐車場に乗り入れる。
マイクに向かって、ブラックコーヒーと、確認を取ってからカフェオレを注文し、受け取る。
受け取る瞬間、18歳はカフェイン禁止じゃないよな…とよぎったが、そんなはずはない。
「はいどうぞ」
「あっ、ありがとうございます! いつもここで買ってるんですか?」
「いや。いつもはコンビニ。今日は比奈野さんがいるからね」
「………」
黙ったので、よくよく見ると、赤面して固まっている。
今何を言ったかもう一度トレースしてから、まだそういう感覚なんだなと思い直す。
「さあて、行こうか」
素直に、そう思う。
コーヒーのおかげで頭も冴えてきた。
隣は美人でスタイルもよく、従順で言うこともない。とにかく、擦れてない、色々な駆け引きや計算が必要ない。真っ新だ。
「あ、あの……その……色々、考えたんですけど」
何か面白いことを言い出すのかなと、期待して、
「いいよー。どうぞ」
「その、あの。私、思ったんですけど! その…そのこれは…、付き合ってるって、そういうことで、そういう解釈でいいんですか?」
「え、じゃなかったら、どういう解釈で今日ここにいるの?」
「えっ、い、いや! 私的にはそういう解釈なんですけど!」
「僕もそういう解釈だよ」
素直に思っていることを言う。
「……付き合ってるんですか?」
「そうだよ」
「……そ、そうなんですか……」
若干落ち込んでいる気がしたので、
「……なんか、変?」
「いや、変じゃないですけど……」
何か、言いたそうだ。
「何に引っかかってるの? 言っていいよ」
そのまま黙り続け、優しく、引き出してやる。
「えっと……。その……どうして私だったんですか?」
思わずハンドル操作を間違えそうになるほど、吹き出してしまう。笑いが止まらなかった。
「な、なんで笑うんですか!」
「え、だって……」
危ない。手元が狂いそうだった。
「……そんなに笑います?」
「いやー、ごめんごめん。いや、……だってねえ。まあ、どうしてもってお願いしてくれたから」
「それは、そうですけど。でもきっと、そう言った人なんて星の数ほどいたでしょうから」
「いないよ!」
「いません?」
「いないいない。頭下げられたことなんてないよ」
「本当ですか!? たくさんの人に土下座されたんだろうなと思ってましたけど」
「土下座、そんなまさか! まあ、思いが伝わった、というかね」
「えー! あの一言で伝わったんですか!?」
「そうだよー」
「……じゃあ、じゃあ聞きますけど」
「はいはい」
「じゃあ、メールとかしても良かったんですか?」
「うん、いいよ」
「……ラインはダメなんですか?」
「ああ、いいよ。そうだ、教えてなかったね」
「そんな、そうだって、今気付いたことなんですか!?」
「普段使わないからね。特別なんだよ、僕的に。ラインは」
そういう事にしておこう。
「……普段は電話番号しか教えないんですか?」
「うん。僕のラインを知ってる人は、会社の中にはいない。……多分ね」
「多分って何ですか? 昔の彼女がまだ持ってるかもって意味ですか?」
「いや、社内で付き合ったことはないからそれはないけど、何かのはずみで湊部長…さんが持ってたかなあとか思ったくらいで」
「湊部長…この前怒られたっていう部長ですか。女の人ですか?」
「いやいや。……湊部長っていうのは、正確には今は部長じゃなくて、前部長なんだけど。その人は昔からお世話になってたから、若いころに教えたかも。あ、男だよ」
「……知らないです……」
あの、知らぬ者などいない湊部長を、いとも簡単に知らないと言ってくれる。なんとも心地よい。
「今まで社内で付き合ったことはないって言いましたけど、前にお付き合いしてた人はどんな人だったんですか?」
「…………。まあ、長く生きてるからね。結婚したことはないけど、付き合った女性は何人かはいるよ」
「……」
「でも、社内にはいないから。社内で恋愛すると碌なことにならないからね」
「……私のこともそう思ってるんですか?」
「いや。思わないから、今ここにいるんだよ。だからベンツに乗せたんだよ」
自分の中では面白い言い回しだったが、それが比奈野には伝わらなかったようだ。
「…社内で恋愛すると、碌なことにならないっていうのは、どういう意味なんですか?」
「うーん、仕事に私情が入るとやりづらいって事」
「でも私は?」
「うん、まあ、同じ店にいるけど、全然接点がないから。じゃなかったら、こうやって一緒に出掛けたりしないよ」
「そうなんですか…。それって信じていいんですか?」
「うんいいよ。信じて欲しくないことは、言わない」
紳士に言ったが、それを18歳の比奈野がどう取ったかは読めない。
「あの」
「うん」
「メールしてもいいですか」
「うんいいよ」
「毎日してもいいですか」
「うん、…すぐは返さないかもしれないけど」
「……それでもいいです。返ってこなくても、メールしてもいいですか」
「うん、読むのは読んでる」
正確に話す。
「電話してもいいですか?」
「うん。出られる時は出る」
「出られない時ってどんな時ですか?」
「仕事の時…とか。かな。お風呂とかトイレとか」
「じゃあ、出ない時は、お風呂かトイレと思っていいんですか?」
「え? まあ、気付かないこともあるかもしれないけど…」
「他の女の人のところに行ってるとか、そういうことは予測しといた方がいいんですか」
わけの分からない質問に笑えた。
「それは一体どういう質問なの??」
「だから……電話でないけど……他の女の人の所に行ってるのかもしれない…っていう心配はした方がいいかどうかっていうことです」
それは、例えそうだとしても誰も言わない気がするが。
「しなくていいよ。僕はそういう事は嫌いだから。いろんな人のそういう修羅場を見てきたからね。それだけはしたくないと思ってる」
「……いろんな人の修羅場。友達とかですか」
「うんまあ……そうだね」
武之内とその妻依子、同じ副店長であった柳原がパッと頭に浮かんだ。あぁいうことだけは絶対にしたくはない。
「……したくないと思ってるって、思ってるっていうのはどのくらい思ってるんですか?」
「ははは、いや、しないよ。しない。しません」
言い切らされて、苦笑した。
自分が18歳から19歳になる頃はどうだっただろうと何度も思い返してみる。
将来のことなど深くは考えていないのに、遊びに行くことだけは念入りに考え、思いついたことを口に出し、後先など考えているはずはなかった。
それを思うと今37歳の自分と、19歳になった美紀が同じ視線でいるとは考えられないはずなのに、恋というのは不思議でそれを同じ視線で見てしまっている。
年は18も離れている。親子ほどだ。その身体に触れるなど、最初は犯罪だと思っていたのではなかったか。
なのに、「関店長のためなら、何でもしますから」という言葉に簡単に騙されるかのように、どんどんハードルを乗り越えていってしまっている。
最初のキスは頬。もちろん、もう、すぐに身体を求めにいくような年ではない。
かといって、美紀は焦らされるのが分かるような年でもない。
ゆっくりと、ゆっくりと、良いタイミングだけを見極めて、手をつないだり、肩を抱いたり、腰に手を回したり。
女性に触れるのが数年ぶりだったが、見切り発車することなく密着度を徐々に上げ、裸になり、手で触れ、舌で触れ、全身で繋がる。
美紀の良いように、それだけを考える。
若い身体と体力を持て余さないように、十二分に満足させる。
美紀が満たされて、初めて自分が満たされる。
最初は震えていた身体も、すぐに大胆さを増し、あっけらかんと自ら誘いかけてくるようにもなる。
それもまた良し。
何せ、美紀の見る世界で、俺に勝る者はない。
全ては俺中心で回り、美紀の知る中で俺は頂点にいる。
7月半ば。たったふた月の間に変貌を遂げた美紀は、視線から言葉遣いから何から何まで変わり、
「はじめちゃん、帰ったら絶対エッチだよ。…嫌じゃないでしょ?」
と、ずる賢く頬にキスをかまし、簡単に大人の階段を駆け上っていった。
若い身体は簡単に果て、数回果ててようやく体力が落ちてから、自らも満足させ、眠りに落ちる。
眠る前も最初はこちらがキスをして、それを受け止めるだけだったのに、今や逆になるほどだった。
「はあ……」
吐息を耳に吹き込みながら、両腕で抱きしめてくる。
俺は、それに応えて、長い、良い香りの髪の毛を撫でた。
「来週さあ、監査で出張でしょ?」
「うん」
北大店へ監査に行くのだが、そこで店長数名が集まり食事会が開かれることになったので、仕事上がりで一泊することにしている。
「その前の日は普通? 日曜日」
「うん? うん…だと思う。シフトは何だったか忘れたけど。あ、早上がりだな。多分」
「その日、同窓会だから。高校の時の」
嫉妬心は全く芽生えなかった。どうせ俺の自慢をするに決まっている。友達の間でも、ベンツで年上のカッコいい彼氏といつも紹介しているのは知っている。
「うん、どこで?」
「南区ちょっと遠いから友達の家泊まるの。浮気なんてしないからね」
先手を打ったつもりか、唇にキスを落としてくる。
「疑ってなんかないよ」
同じようにキスを返す。
「はじめちゃんはさぁ、同窓会とかないのー?」
「さあ。連絡はないけどね、あっても行かないかな。興味ない」
腕枕した髪の毛の先が頬をくすぐり、手で少しよける。
「えー、もしかしたら、初恋の人がすっごい美人になってるかも!」
「………関係ないよ。初恋がどうだったかも忘れたなあ」
幾度となく店内で浮気、不倫の話を聞いたこと、またそれをそれなりに対処してきた自分にはトラウマのようにそれが残っている気がする。
「……まあ、そんなことはいいから。日曜、楽しんでおいで」
7月15日
1年のうちで忙しい週というのはだいたい決まっているが、その予測できる週のうちの1つが今週だとも言える。
日曜は早上がり、月曜は北大店で監査、火曜は食事会からの宿泊休み、水曜遅出、木曜早出、金曜早出、土曜遅出、日曜早出、月曜休み。
更に翌週は加速度を増す。そんな中、美紀からの連絡がないことに気付いたのは、金曜の夜家に帰った時だった。
水、木曜は火曜の監査で予想通り指摘された、デジカメの高額在庫の差異を詰め直していたせいで、気付かなかった。
売り場が忙しいということは倉庫も忙しいから、と気遣ってこちらから連絡しようとして気付いた。
美紀から連絡がない事は今までにない。まさか、どこかで事故にでもあって!とも思ったが、欠勤の報告がなかったので出社はしていたことになる。
「………」
日曜、同窓会に行くと言っていた。
いやしかし、そんなはずはない。
思い切って電話をかけてみる。
が、出ない。
時刻は23時を回っている。寝ている可能性だってある。でも、俺から電話をかけて、出なかったことは一度もない。
「………」
そんなはずはない、そんなはずはないのに、それらを即予測し、既に覚悟をしている半分冷静な自分がいた。
相手は19歳。自分が19の頃は、明日のことなど考えずに遊ぶことだけを念入りに考えていた。そうだった……。
関は部屋の真ん中で立ち尽くし、ただ茫然と床の一点を見つめる。
振り返るのが怖くて仕方ない過去を一瞬で闇に葬り、やり場のない思いにもただそっと、蓋をした。
一番ショックだったのはその瞬間だった。
その翌日の土曜、売り場に姿を見せた美紀とちらと視線が合ったはずだった。
だがそれを、確実に逸らしたのが分かった。
その瞬間、予測が現実に変わった。
その時、何も感じなければ良かった。
その時、何かの間違いだと嘘を上塗りすれば良かった。
だが生憎、今までの経験がそうはさせず。俺は簡単に全てのことを悟り、そしてあっさり離れていく美紀を追いかけようともせず、ただ、一秒でも早く元の穏やかな生活に戻ろうと、溜息を吐いた。