ガラスの靴は、返品不可!? 【前編】
◇◇◇◇

「徐南三……、亜萬打……、打丹得琉……」

スマホの辞書アプリを使いながらコースターの裏に書き込んだそれを見て、「何も無理やり漢字を使わなくてもいいんじゃないんですか?」と初老のマスターが首を傾げた。

場所は、最近見つけた小さなバー。
会社から徒歩圏内ながら、以前通っていた所とは正反対の方角にある。

オレンジ色の間接照明に柔らかく照らし出された店内には、僕の他に、ソファ席の数人がグラスを傾けている。
マスターの年が関係してるのか、客の年齢層は僕より随分上っぽいけれど、その分落ち着いた雰囲気になっていて、居心地よかった。

「ダメダメ。せっかく漢字っていう素晴らしい文化の国に暮らしてるんだから、使わないなんてもったいないでしょう」

ゆったりとグラスを拭くマスターに向かって、僕が言った時だった。


ガラン、と重ためのカウベルが鳴り、細いシルエットの男が入ってきた。

僕をカウンターに認めると近寄ってきて、無言のまま隣席に座る。
呼び出した相手――貴志は、スーツ姿だった。
本業の帰りなのかもしれない。
(彼は父親の会社で、役員を務めているのだ)

「何やってんだ?」

怪訝な視線が、僕の手元に落ちている。

「じょ、みなみ……さん? なんだそりゃ。お経? それとも暗号か?」
「え、うそ、読めない?」

がーん、とかなりショックを受ける僕に、彼が眉を寄せる。
「読めないって……だから、なんだよこれは?」

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