ガラスの靴は、返品不可!? 【前編】
<やめろ、酔っ払い>
無理やり腕を振り払うと、シンシアはくすくす、楽しそうな笑い声をあげた。
<ここに来る前、ちょっと飲んだだけよ。共演のオーケストラとね、がんばりましょうって>
僕とは反対側の隣席に置かれた楽器ケースを、さらりと撫でた。
バイオリンより少し大きめのその中に入っているのは、中国の伝統楽器である二胡。胡弓ともいう。
彼女、シンシア・チェンは、そこそこ名を知られたプロの二胡奏者で。
おそらく東京にいるのも、近々コンサートがあるとか、そんなとこだろう。
<何飲む? ここ、食事も出してくれるし……それとも、どこか別のところに行く? わたしはそれでもいいけど>
まとわりつく蜜のような濃い香りも、唇を舐める赤い舌も、なにもかもが鬱陶しい。
眉間にしわが寄っていくのを自覚しながら、深呼吸した。
<今日ここに来たのは、もう会わないってはっきり言うためだ。連絡も、しないでほしい。番号は消してくれ>
赤い唇が不機嫌そうに歪む。
けれどそれは一瞬で、すぐに蠱惑的な弧を描いてみせた。
<あの日本人と続いてるのね? べつに構わないわよ、それでも。今までだって、お互い恋人がいようと関係なく楽しんできたじゃない?>
その言葉は、嘘じゃない。
彼女とは一時期、セフレのように付き合っていて。
その頃は、浮気を浮気だと思うこともなく関係を持っていた。でも今は……
<恋人じゃない、フィアンセだ>
僕が言うと、シンシアが目を瞠った。
<……驚いた。あなたが結婚なんて、本気なの?>
<もちろん。だから不安にさせるようなことは、したくない>
僕の昔の女性関係なんて、飛鳥は気にしないかもしれないけど。
でも、逆だったら?
彼女が昔の男と、僕に内緒で会っていたら?
……嫉妬に狂って、何をしでかすかわからない。
僕にとって彼女は、それほど特別な人だから。