初恋の花が咲くころ
「失礼します」

これはいったい何度目だろう。
機嫌悪そうに仕事に来たかと思えば、自分のオフィスに雑用係の咲を呼び出す。それが編集長にとって日課にでも、なっているのだろうか。
もはや、緊張さえもしなくなった咲はなんの躊躇もなく部屋へと入って行く。その様子を不思議な様子で、先輩たちが見つめているのには気づいていた。
「座れ」
咲は、桐生の前の席に座った。
「聞きたいことがある」
「今度は何でしょうか?」
「お前、前に月島には彼氏がいないと言っただろう?」
「はい」
またこの話か。覚悟はしていたが、ここまで女子トークを仕事中に持ち出すとは、編集長としてそれでいいのか、疑問がぬぐえない。
ま、私は出来る仕事もあまりない雑用係だからいいんだけどさ…
「おい、聞いているか?あのな、思い出したんだが、金曜に社員のメンバーで飲み会をするって言ったんだ。だが、月島だけには断られた。金曜の夜と言えば、お決まりのパターン、彼氏じゃないのか?」
「違いますよ。私と約束があったんです」
咲はなるべく失礼な態度にならないように努める。
「毎月4週目の金曜日は、私と二人で焼肉パーティーをするんです。だから断ったんです。証拠見ますか?」
そう言って、スマホから焼肉の様子を見せる。
桐生は写真をじっくり見たあと、ホッとしたような表情を見せた。
その表情がなぜか今までになく優しくて、咲の心臓がトクンと小さく鳴った。
「もういいですか?」
自分の心臓の状態に全く気がつかない咲は、胃の辺りが少し変だな、としか考えていなかった。
「いや…。相談がある」
「なんですか?」
「…もっと月島に近づきたいから、俺にコーチングしてくれないか?」
「嫌ですよ」
ハッキリきっぱりと咲は言った。
「なんでだ!これが仕事でいいんだぞ!お前は、ただの雑用係だろ!」
「嫌ですよ。先輩の目もあるし、それに私にメリットは一つもないじゃないですか」
鬼の桐生が、新入社員相手に頭を抱えているなどというこんな光景は、他では見られないに違いない。
「他の社員の目は、何とか出来る。お前のメリットは…、なんでも言ってくれ。望みをかなえてやる」
26歳、大企業の御曹司が、鬼と恐れられている有名雑誌の編集長が、好きな人に近づきたいが為に新人雑用係のいう事を聞くなど、前代未聞じゃないか。
明日は雪が降るかも…
「そうですね…」
ここぞとばかりに、咲は頭をフル回転させて望みをひねり出す。
「まず、一つ目。編集部の社員さんたちにもっと優しくなって下さい。一緒に一つのものを創り上げるには、信頼関係も必要だと思います」
「優しくか…。具体的にはどうすれば…」
本気でやり方が分からないとでもいうように困った表情を見せる編集長に、また胸が一つ高鳴る。
「なんでもいいんですよ。挨拶をするとか、怒鳴らないとか。何か仕事を成し遂げたのではあれば、ありがとうと素直に言えばいいんです」
「ど、努力する…」
「それから…」
咲は、デスクの側に立っている編集長を見上げた。
「社員の名前を呼んであげて下さい」
「名前?」
「はい。名前を認識されてないと、自分が重要じゃないと思われてしまいます。名前を呼ばれるだけで、士気が上がると思いますよ」
「そうか…。しかし」
口を濁して桐生は言った。
「俺は、人の名前を覚えるのが苦手だ」
「少しずつ頑張って下さい。きっとあやめも見てますよ、編集長のそういうところ」
「月島が?」
あやめの名前だけは、ちゃんと覚えるのに…
「じゃあ、そういうことで」
席を立つと、桐生は咲を呼び止めた。
「お前自身の望みは聞いてないぞ?」
「私は…」
望みはある。しかし、ここで言っていいものなのか。
「何でも言え。叶えてやるから」
桐生が真剣な顔をしたので、咲は一呼吸置いてから口を開いた。
「あの…もし、デザイン部に空きが出るようなことがあれば、いつか、そこに異動したいです。本当に、いつかで、いいんですが…」
声がどんどん小さくなっていく。編集長がそんな権限を持っているとも思えなかったが、言わずにも言われなかった。
「デザイン部か。ま、出来る限りのことはしよう」
恐らく無理であろう要求を馬鹿にしないでくれただけでも、有り難いと思った。
「では、失礼します」
咲が背を向けると、桐生が言った。
「成瀬、これからよろしくな」
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