初恋の花が咲くころ
「って、スーツ!?」
超高級ブティック感が否めないお店の中には、質の良さそうなスーツが美しく等間隔に並べられている。
「そうだ。葬式って思われるのは残念だからな。月島が好きそうなスーツを選べ」
「仕事帰りにして…」
咲は桐生に聞こえない位の声で、ぼそりと呟かずにはいられなかった。
「ほら、成瀬。どれがいいと思う?」
「黒以外であればなんでもいいんじゃないですか?」
半ば投げやりで言うと、桐生は困った顔をして言った。
「そうか。それならここにあるもの全て試してからじゃないと帰れないな」
「はっ?」
何を言っているんだ、このおっさんは!
「月島の好みを知ってるのは、お前くらいだからな」
「そんな全部試着なんてしてたら、いつ終わるか…。私、仕事がまだ残ってるんです!」
「じゃあ、ちゃんと協力しないとな?」
目の前で悪魔のような笑顔を見たのは、人生で初めてかもしれない。


「そうですね。黒から急に明るい色にするのは、勇気がいると思いますから、黒いスーツを着るのであればネクタイの色を変えたり、Yシャツを白にしたりしたらどうですか?」
大きな全身鏡の前で、咲と桐生と、男性店員の3人は並んで意見交換をしていた。
「ワイシャツをこのピンク色にするのもいいんじゃないですか?」
男性がサーモンピンク色のYシャツを見せる。
「ピンク…?」
明らかに怪訝そうな顔をして桐生が言い、それを見た店員はびくっとする。しかし、咲が「いいですね~」と楽しそうに反応したので、微妙な雰囲気は免れた。
「ワイシャツをピンクにするだけで、ぐっと変わりそうですね!」
「ネクタイであれば、グレーとか」
「グレー良さそう!あと、このチェック柄もカワイイ」
2人で盛り上がっている様子を、桐生は傍から見ているしかなかった。
「あ、このスーツどうですか?黒じゃなくてチャコールグレーのスーツです」
店員さんにサイズを確認してもらっている最中に、店内をうろうろしていた咲は良さそうな上下のスーツを見つけた。
「これなら、色の大きな変化はなくてもいい印象は与えられると思いますよ」
「着てみるか」
咲からスーツ一着を受け取って、桐生は着替え室のカーテンの向うへと消えた。
「そのスーツに合うネクタイ探してきますね」
カーテンの奥から「おう」と言う声を聞いてから、またもやその場を離れる咲。最初は嫌々だったのに、今では楽しんでいる自分がいる。スーツ一つを選ぶのにも、ネクタイやワイシャツの色や柄を考える必要があるのが、もともと配色が好きでデザインに進みたかった咲に、しばらく忘れていた興奮に似たようなものを思い出させていた。
「このボルドーのネクタイとか…」
咲がネクタイ探しから戻ると、試着室から出ていた桐生が鏡の前に立っていた。
ただスーツが黒からチャコールグレーに変わっただけなのに、別人のように見える。
「かっこいいです…」
咲はそう呟きながら、桐生に近づいた。
「めっちゃいいじゃないですか!キマってます」
「そうか」
褒められて悪い気はしない桐生の顔も緩んでいる。
「そのネクタイ、貸して」
元々身長も高いためか、スーツを着こなし、ネクタイを締める姿が様になっている。自分の心の内がハイジャンプを始めているが、それに気づかないふりをして、目の前の数分前とは違った印象の男性にただ目を奪われる。
結局、咲がいいと言ったものは全て購入し、咲の心臓は帰りの車まで収まることはなかった。
「どうして、黒のスーツしか着ないんですか?」
何か話していないと、自分の心臓の音が聞こえてしまうのではないかと、焦った咲は会社のエレベーターを待ちながら言った。
「楽だから。あと年下だから、とか社長の息子だからで見下されたりしたくなかった。とにかく威厳を保ちたかった」
大きな会社で自分を護るためだったのか。
前を歩く子供のような編集長が少し大きく見えた気がした。
< 18 / 49 >

この作品をシェア

pagetop