初恋の花が咲くころ
中途採用だったため、月日の流れを完全に忘れていた咲だが、ちょうど今は入社シーズンのようだ。
パリッとアイロンがかけられた下ろしたてのスーツを着た若い社員、そして全員同じに見えるリクルートスーツを着た学生卒業したばかりの若い女性社員がエレベーターの大半を占めている。自分が私服OKの編集部で働けて本当に良かったと、新入社員に軽く会釈をしながら咲はそう思った。営業部は、人員が多いせいか、編集部から二つ下の階に位置しており、フロア全体を使っていた。
今日は新人研修の真っ最中のせいか、大勢の人でごった返している。とにかく中に入らなければ、何も始まらない。そう思い、人をかきわけて近くの社員を呼ぼうと声を上げたが、近くにいた女性社員の黄色い悲鳴にかき消されてしまった。驚いた咲は、思わずその悲鳴の方向へと頭を向ける。そして思わず「げ」と声が漏れていた。
明るい茶髪に軽くパーマをあてた、背が高く、程よく筋肉が付いたスポーツマンタイプの男性。他の先輩社員から「頑張れよ」や「期待してるぞ」と言われ、調子良く「任せて下さい」と言っている声が聞こえてくる。
あー、人違いでありますように…
隣にいた女の子が「あれが、噂の棗(なつめ)くん?」「そうそう。インターンの時から結構活躍してたみたいで先輩から期待されてるんだって」と話している。
人違いでありますように…
咲は回れ右をして、とにかく大勢集まっている人だかりをかきわけて、営業部の中へと入って行く。あまりの多くの人に、向田さんに頼まれたものを届けた時には息切れをしていた。
「編集部です。これ、向田さんから渡すように言付かってます」
そう言ってすぐさまその場を離れようとすると「あ、ちょっと待って。こっちも君の編集長に渡してもらいものがあるから」とパソコンに向き直った。
咲は、しばらく待っていたが我慢できずに口を開いた。
「あの…向こうで騒がれている人って新入社員ですか?」
「え?ああ、真島(ましま)?」
画面から顔を離さずに営業部の人は言った。
「そうそう。彼、かなりのやり手だね。俺たちの間でも期待のルーキーだって有名よ。よし、終わった」
頭の中が真っ白になった。何についての書類か特に聞くこともなく、早くあやめに報告したいという気持ちでエレベーターのボタンを連打する。
しかし、編集部の自動ドアをくぐって、足が止まった。あやめのデスクで、編集長と二人で楽しそうに話している姿を目撃してしまった。あやめの手には、彼女の大好物である激甘のチョコレートの袋が握られている。
今朝貰った自分のチョコレートの箱とイメージが重なる。自分の分は、ただのついでだったのだと思い知らされた。

咲は、二人には気づいていないかのように速足で、編集長室へと向かう。後ろから、あやめの「あ、咲」と呼ぶ声がしたが、聞こえないふりをして急いでドアを閉める。
「うう…」
そして今しがたやってしまったシカト行為に、罪悪感でその場にうずくまった。
「人生で初めて…」
あやめを無視したのは…。
そして、今度はガバッと起き上がり、向田さんに内線をかけた。
「何でもいいので、仕事を下さい!」
とにかく編集長があやめのところから帰ってくる前までに、この場から去らなければ。
先ほど営業課から預かった書類を編集長のデスクにポストイット付きで置き、無理やり作ってもらった倉庫の片付け仕事をするために、一人、倉庫部屋へと向かった。
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