初恋の花が咲くころ
「遅い」
玄関先で待ち受けていたのは、小さな顔には大きすぎるマスクをし、Tシャツに灰色のスウェットパンツという普段から想像もできないような姿の編集長だった。
「これでも早く来ました」
とにかく頼まれた(であろう)、風邪薬をカバンから取り出そうとしていると、桐生は体を震わせて言った。
「寒い。入れ」
「え…」
薬を届けたら帰るつもりだった咲は思わぬ展開に、言葉を失った。
これは、なんでも無理というか、嫌というか。だってお風呂入ってないし、ソファーで寝たから格好はめちゃめちゃだし、気持ちを封印中とはいえ、好きな人には見せたくない姿だ。
「早くしろ」
久ぶりの桐生のどすの聞いた声で言われ、咲はしぶしぶ「お邪魔しまーす」と初めての男性の部屋に足を踏み入れた。
「薬買ってきたので、飲んで下さい」
一人で住むにはいささか大きすぎるであろう大理石のリビングで、近くにあったテーブルの上に今しがた薬局で貰って来た薬を並べる。
「これが、熱、そしてこれが喉。一日三回、飲むみたいです」
桐生はすでにリビングのすぐ隣にあるベッドルームに移動し、ベッドにもぐり込んでいる。立っているのがよほど辛いのだろう。
「喉乾いた…」
桐生が呟き、咲は薬と一緒に買って来たポカリスウェットをベッドに横たわっている桐生に渡す。
「熱どれくらい出てますか?」
咲は膝を立てて、汗を大量にかいている桐生の額を「失礼します」と言いながら触る。
「結構、熱いですね。体温計はありますか?」
「ない」
「だと思った…」
咲は小さく呟き、自分のカバンから薬局で念のため買っておいた体温計を取り出した。
「これ、どうぞ」
桐生の体から目を逸らし、体温計がぴぴっとなるのを待つ。
「39度…高いですね」
「薬は?」
「明日は休みですよね?では、薬に頼らず治しましょう」
桐生は信じられない、という目で咲を見つめる。
「出る熱は、出しておいた方がいいんです。タオルも用意しておきますから」
そう言って咲は、勝手に色々触りますけど、怒らないで下さいね、と言って一人暮らしには贅沢すぎる大きなマンションの一室を歩きまわる。
そして、タオルを氷水で冷やし、すでに眠っている桐生の額に置く。その間に、起きた時に食べられるようご飯の支度をすることにした。冷蔵庫を開けると、結構食材がそろっている。
「料理するんだ…」
誰かのために病人食を作っていると、昔のことを思い出す。両親がいなくて、でも棗が熱を出した時、咲はよく面倒を見ていた。しかし、病人になっても棗は、王様のように振る舞い「アイス買って来い」だの「このゼリーじゃなくて別のにしろ」とか、結局は家来のように扱われていた。
「ってなんで、こんな時に嫌なこと思い出さなきゃなんないのよ…」
そんな横暴な棗でさえ、文句を言わなかったのは、咲の作るおかゆだった。
「これだけ得意って、どうなの私…」
自分でむなしい気持ちにさせていると気づいた咲は、黙ることにした。
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