初恋の花が咲くころ
「37.8度…」
咲が到着して数時間経った頃、桐生の熱はすこしずつだが、引いていくのが表情を見てとれた。険しかった顔がだんだんと安らかになっていく。
氷水を変えようと、立とうとすると、急に腕を掴まれた。
「…どこへ行く?」
「びっくりした。起きたんですか」
「まだ…帰らないよな?」
本当に編集長ですか、と言いたくなるくらい別人だ。病んでいる最中は、人格が変わるっていうけどそれは本当だった。鬼の編集長と社員に恐れられている人が、普段は絶対に見せない甘えた顔している。この瞬間を動画に取りたかったが、相手は病人だと自分をたしなめる。
「水がぬるくなっているので、かえるだけです」
顔がにやけないように、努力しながら咲は言った。
「嘘じゃない…よな?」
「はい」
笑顔で答える咲を見て安心したのか、桐生は掴んでいた手を離した。
「なんで…デザイン部に行かせたのか」
咲がタオルを冷やし、絞っている最中に、桐生は呟くように口を開いた。
「あのあと、めっちゃ悔やんだ」
目を閉じながらも何かを言っているが、咲の耳には届いていなかった。
「お前がいなくて寂しかった」

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