プラチナの景色
想いを残したまま別れた女性の結婚式の日、僕は休暇をとった。
理由も告げずに休む僕を周りはいぶかしんだが、 取り立てて 「どうしたんですか」 と聞く者はいなかった。
あてもなく車を走らせ、車の少ない道を選んで行先を変えた。
風を感じたくて車の窓を開け放すと、肌を突き刺すような冷たい風が容赦なく飛び込んできたが、空気は案外心地よかった。
風が潮の匂いを含んでいた。
海が近いな……
そう思ったとき、目の前に海岸線が広がった。
人気のない冬の海岸は今の僕にとってありがたかった。
彼女と過ごした一年、それに別れてからの日々を加えると、彼女に出会ってから五年近くがたっている。
彼女は期限付きの恋人だった。
仕事に必要なパートナーにとどまるはずだったのに、彼女は僕の中で名目以上の存在になっていった。
別れが前提の契約を提示したのは僕だ。
契約期間が終了しても別れがたく、どれほど契約破棄を申し出ようと思ったか。
堤防に腰掛け、冬の海のうねりを見ていると、まるで今の自分と同じではないかなとど、センチメンタルな気分になる。
波の音に足音が重なってきた。
「こんにちは」 の声に振り向くと、ショールで襟元を押さえ、肩をすぼめた品のいい年配の女性が立っていた。
「冬の海も綺麗でしょう。波の音が大きくて、考え事をするには最適なの。
それに荒々しい波って、いろんな思いを沖に運んでくれそうな気がするわ。そう思いませんか?」
「そうですね……」
「あなたはどんな思いを波に託したのかしら。お聞きしてもよろしい?」
突然立ち入ったことを聞く女性に驚きながらも、その真っ直ぐな視線に促されるように僕は口を開いた。
「今日は大切な人の結婚式でした。思い切りの悪い僕は、彼女におめでとうも伝えられなくて、
仕事を投げ出してこんな所に来ています」
「そうでしたの……でもね、今日一日、その方のことを思って過ごすことも大事なことよ。
ここは、気持ちを整理するのにピッタリの場所ですもの」
「そんな風に考えたことなかったな……忘れることだけを考えていましたよ」
「でも忘れられない……そうでしょう? いいじゃありませんか、あなたの中で大事に守り続けてもね」
「そんなの、未練がましくありませんか」
「誰もあなたの心の中なんてわからないわ。私もね、そうしているの」
その人は、僕に向かって柔らかい微笑を向けたあと、自分のことを話しはじめた。
昔、大好きだった男性がいたこと。
けれど、その人は他の女性と結婚したこと。
その後、他の男性にプロポーズされ、受け入れたこと。
そして、ご主人は去年亡くなられたこと。
「ここにきて、波を見ながら、いろんな時を思い出して時間を過ごすのよ」
「僕と同じような思いをされたのに、とても穏やかに過ごしてこられたんですね。
僕はもがいてばかりだ」
「もがいたっていいじゃありませんか。それも、あなたの時の過ごし方だから」
「そうですね、泣いたっていいのかもしれない。本当はそんな気分です」
「まぁ、正直だこと」
彼女への思いを断ち切ろうと躍起になっていたが、この人と話すほどに気持ちが落ち着いてきた。
今日は彼女と過ごした時を思い出しながら過ごしてみようか。
女性の言葉は、僕を至極素直にした。
「ありがとうございました。また波を見に来ます。近くにお住まいですか?」
「えぇ、すぐそこなのよ。ほら、あそこの青い屋根の家。今度お目にかかったときは、お茶をご馳走させてくださいね」
「ぜひ、そうさせてもらいます……あの……お名前をうかがってもよろしいですか?」
「悠子です。悠久のゆうと書きますの」
「はは……」
「あら、なにがおかしなことを言いました?」
「あっ、すみません。僕の大切な人も、初めて名前を聞いたとき名字ではなく、名前を答えてくれたので、つい」
「まぁ、そうだったの。では、あなたのお名前もお聞きしましょうか」
さすがに名前だけでは失礼かと思い、胸ポケットから名刺を出し悠子さんに差し出した。
すると……
「お名刺はよろしいわ。名前だけのお付き合いも、面白いと思いませんこと?
ねっ、あなたのお名前だけ教えてくださる?」
「そうですね……利樹です。字は」
「利口のりに、きは樹木のき、かしら」
「よくわかりましたね」
「ふふっ、なんとなくね。では利樹さん、またお会いしましょう。私はいつも午後3時から散歩を始めますの」
「わかりました。悠子さんに会いたくなったら、3時にここにくればいいんですね……」