プラチナの景色
「これは君がデザインしたの?」
初めて聞いたあなたの声は、深く心地よく私の耳に響いた。
声の方を振り向くと、つい最近読んだ雑誌で見た男性が、このネクタイピンを気に入ったのか、しばらく眺めたあと私に視線を向けた。
「いえ……デザイナーにお会いになりたいのでしたら、連絡いたしましょう」
「その必要はない。君に興味があったから聞いただけだ。どうだろう、このあと食事でも」
大勢の前で誘うとは、なんて強引な男だろうと呆れながら、声の魅力に勝てず 「はい」 と返事をした。
誘ったのは彼なのに、私の即座の返事に驚いたのか 「えっ?」 と聞き返し、それから意外なほど弾けた笑みを見せた。
「即答とは嬉しいな。気に入った。じゃぁ行こうか」
「えっ」
あまりにも早い展開に、私もまた聞き返し、彼の肩越しに見える上司に助けを求めると、ここはいいから行ってこいとばかりに手のひらが振られていた。
「君の名前は?」
「亜矢子です」
「亜矢子か……しかし、君も変わってるね。普通は名前を聞かれたら、名字を答えるんじゃないか」
「いけませんか?」
「いや、いけなくはないが……僕に名前で呼んで欲しい、そういうことだと判断したが」
「その通りです」
ますます気に入ったよと、高笑いのあと車へと誘われた。
打ち合わせ前、国内でも高級なイメージを持つ服飾メーカーの重役だと紹介された。
新事業のイメージを決める大事なCMに、後継者でもある御曹司が出演すると発表され、業界の話題を一気にさらったのは数ヶ月前。
モデルに引けを取らない容姿と、それにも勝る育ちの良さからくる上質な男性の匂いが漂うCMは、ブランドイメージをより高めたと、業界紙のみならず週刊誌までもが書きはやし立てた。
そんな男が、いま私の横に座っている。
武者震いにも似た感覚が全身を襲ったが、ここで怯むわけにはいかない。
自分を奮い立たせるように気合を入れ、拳を握り締めた。
「そんなに緊張しないで肩の力を抜いて。僕もそうするよ」
「はい……」
「君の仕事の顔に魅せられた。大きな目が忙しく動くのを見ているだけで楽しかった。
真っ黒い髪に惹かれた。今どき、黒髪にはお目にかかれないからね」
「私はあなたの声に惹かれました。強引なのに、あなたの声をもっと聞いていたくて、それだけの理由でここに座っています。
それでもかまいませんか?」
あはは……と、先ほどより大きな笑い声が車内に響く。
「思った通りの人だった。なぜ君を誘ったのか、理由を知りたくないか?
ただ一緒に食事がしたくて君を誘ったとは思ってないだろう」
「そうですね。あなたのように恵まれた人が、平凡な女を理由もなしに誘うとは思えません」
「察しの良い女性は好きだね。君のその潔さが気に入った。単刀直入に言う、期限付きの恋人を探している」
「期限付きって、どれくらいですか?」
「短くて3ヶ月ほど、長くても数ヶ月だろう。一年はかからないはずだ。君、恋人は?」
期限付きの恋人を探しているといいながら、決定したような言葉が続く。
私が断るとは思わないのだろうか。
「今はいません……わかりました。それで私は何をしたら良いんですか?」
「僕の出るパーティーに一緒にでてもらう。ただ一緒にいるだけでは困る。周囲に仲の良い間柄だと思わせること。
君には、僕に見合ったパートナーになってもらう。身につけるもの、服や靴、ジュエリーなど持ち物はすべて一流品のみ、それらはこちらで準備する。
公共交通機関は使わないこと。運転手付きの車を用意する。費用は一切こちら持ちだ。
それから、プライベートまで恋人である必要はない。君と関係することはないから安心しなさい」
私に魅力がないということか、なんて失礼なことを言うのだろうと思ったが、計画そのものは面白そうだと即座に了承した。
そんな私をますます気に入ったと言いながら、尊大な男は私の頬に手を当てた。
予期せぬ出来事にビクンと震えた。
「ふれただけで驚かれては困る。僕らは恋人同士なんだからね」
「わっ、わかってます。それで、私はどんな報酬をいただけるの?」
「君のために買った物すべてを君に与える」
「わかりました。期限付きの恋人ってドラマみたい。
そう言えば、ドラマの俳優もメガネをかけていたわ。こんなこと言ってもあなたにはわかりませんね」
「ドラマの二人は婚約したが、僕らはそうはならない」
「あのドラマ、専務もご覧になったんですか?」
「面白いドラマがあるからといって、わざわざDVDを貸してくれたおせっかいな人がいてね。
なぁ、恋人同士で専務はないだろう。僕の名前は知ってるね。それから敬語もなしだ」
そう言ったっきり彼は黙ってしまった。
まるで横にいる私の存在など忘れたように、車窓に目を向けたまま身じろぎもしない。
期限付きの恋人……
この人が何の目的でそんなことを言い出したのか真意はわからないが、今の私には、ちょうど良い時間の使い方だと思った。
彼は今どこにいるのだろう。
突然姿を消して、もう一年になる。
必ず帰ってくるからと、馬鹿げた手紙を残して出て行った男は、女はいつまでも待っていると思っているのだろうか。
自分勝手な男のことなど忘れてしまおうとしたが、いつも優しくそばにいた彼の影を引きずる自分もいた。
「利樹さん、連絡先の交換をしたほうがいいんじゃない?」
「あっ、あぁ……そうだな」
名前を呼ばれ、いきなり親しげに話しかけられて、彼は明らかに動揺している。
ふふっと笑うと、「笑うな」 と忌々しそうな顔が命令した。
この声は顔ほど怖くなくて、また笑いが込み上げた。
ふてくされた顔が 「着いたよ」 告げ、下車を促した。