愛は貫くためにある
君が姿を消してから、僕の世界は一変した。
僕の人生はまるでモノクロの世界を見ているようで、毎日が退屈だった。
君が居た生活はあれほど楽しかったというのに、今はこんなに退屈でつまらないなんて。
いかに君が大切だったかを、今更ながら僕は思い知った。そんな退屈な毎日に転機が訪れたのは、それから三年後のことだった。児童養護施設で過ごしていた僕に、養子の話が持ち込まれたんだ。僕は二つ返事でその申し出を受け入れた。
 それから時は過ぎて、僕はファッションショーの演出を手掛けるファッションショープランナーの仕事は、やりがいがあって何より面白くて楽しい。環境に恵まれ仕事は順調だったが、僕の心が満たされることはなかった。その理由は、ただ一つ。君を、失ったからだよ。
君のことを忘れることなんて、一度もなかった。寧ろ、その逆だ。
ようやく見つけたんだよ。喫茶店の前で掃除する、君を。僕はすぐに君だと気づいた。
昔と全く面影が変わらない君を見て、君と過ごした十年前に戻ったかのような錯覚を起こした。上手く言葉では表せないけど、君に再会できたことが飛び上がるほど嬉しくて、泣きそうになったのは事実。大袈裟とか、言わないで。それくらい、僕は嬉しかったんだから。
 それから僕は何度か、清掃をする君を見守っていた。でも、すぐに気づいてしまったんだ。
君は昔と同じく、全てを一人で抱え込んで生きていることに。僕は、見ていられなかった。これ以上、君に傷ついてほしくなかった。だから僕は、君を守った。
いつもピンチの時に颯爽と現れる僕のことを、君は知りたがっていたね。でも僕は、君に名前を名乗らなかった。名乗ってしまえば、たちまち君は僕の前から再び姿を消してしまうんじゃないかと、怖くて仕方がなかったんだ。嫌われてしまうのなら、いっそのこと名前を明かさずに謎多きヒーローでいる方がいい、と思ったんだ。でも、不思議だね。君に会えば会うほど、欲が出てしまうんだよ。僕の正体を明かして長年の君への片想いを成就させたいという欲が、どうしようもないほどに膨れ上がってしまうんだ。これは偶然じゃないと、偶然ではなく必然だと僕は感じたんだ。シンデレラの名は、星川美優。そう、愛しい君の名前だよ。十年前のある日、君は僕の前から忽然と姿を消したんだ。何も言わずに、君はいなくなった。君は今日まで、一体どうやって生きてきたんだろう。きっと、平坦な道ではなかったはずだ。でも、君が無事で僕は安心したよ。君がきっとどこかで生きていると信じてはいたけど、どこかで不安だったんだ。体を壊していないだろうか、事故に巻き込まれて命の危険にさらされていないだろうかと、僕の心の中にはいつも不安が渦巻いていた。でも、君を見つけた時長年僕を苦しめてきたその渦が、一瞬にしてすっと消えたんだ。あんなに長年気を揉んでいたのに、まるで魔法のようにすっと消えてなくなったんだ。君が僕の前からいなくなってから今日で十五年。長かった。長かったけど君を見た瞬間に、そんな考えは吹っ飛んだ。また君と、笑顔で手を繋いで歩いていく日々しか、僕には想像できなかったから。
もう二度と離さないと、決めていたから。だから、ごめん。どんなに嫌だと言われても、僕は君を離すことはできない。離せないんだ、君を。君にとっては、僕の十五年分の愛は重すぎるのかもしれない。でも、少しずつでいいから僕のことを、また好きになってほしい。
そんな願いが、日に日に強くなっていくんだ。
衝撃の再会の翌日から、僕は君が働く喫茶テリーヌに通い始めた。ほとんどパンばかり食べているから、食事はコンビニで事足りる。だから喫茶店に行くことはまずないんだけど、君が働いている喫茶店なら別だ。そんなわけで、僕はテリーヌにほぼ毎日通い詰めて常連客となった。喫茶テリーヌの常連になってわかったことが、いくつかある。
喫茶テリーヌは、オーナーの戸田春彦さんと妻の桃さんが経営する喫茶店でお洒落な店内の中にもレトロ感が感じられて、とても居心地の良いゆったりとした空間を過ごせる。
この喫茶テリーヌに辿り着いたのは、やはり運命なのではないだろうか、と思うことは何度かある。戸田夫妻から聞いた話だけど、君は桃さんを訪ねて生まれ故郷の北海道からこの東京に上京してきたんだね。桃さんが君の親戚だということは、最近知ったよ。
行く宛がないから居候させてほしいと戸田夫妻に頼み込んだ君は、店員として働き始めた。でも、君はすぐに仕事に慣れることはできなかった。君は昔から、対人恐怖症と人間不信だったからね。今も君は、常に何かに怯えていた。そんな君を、僕は変えたい。君の笑顔を、もっと見たい。笑ってほしい。そう思ってしまうのは、僕の我儘だろうか。
 君は毎朝、喫茶テリーヌの周辺を掃除している。丁寧に、ゆっくりと時間をかけて。
君らしいな、と僕は思わず笑みを零した。何事にも一生懸命な君が、僕は大好きだ。
君が一番恐れている夜がやってくると、君は必要以上に周囲を気にする。いつも決まって夜にごみ捨てをする君は、ごみ捨てを早く終わらせようと小走りでごみを捨てに行き、帰ろうとする。でもその帰り道、すぐに黒い影に捕まってしまう。これが君の、いつもの日常だったんだね。君がこんなに苦しんでいるなんて、今まで知らなかった。君を捕らえるその影は、君を苦しませるあの男。君は、抵抗という言葉を忘れてしまったのだろうか。君はただ黙って、耐えているだけ。嵐が過ぎ去るのを、ずぶ濡れになりながら待っているだけ。そんな調子だから、男の行為は日に日にエスカレートしていく。もし君がまだ希望を追い続けているのだとしたら、僕が君の笑顔を引き出して見せるよ。勿論楽しいことばかりの人生ではないかもしれないけど、君が僕の手を握ってくれるのなら、幸せな未来は約束するよ。
僕と、恋を始めませんか。
          *
私は、達筆な字を眺めながら手紙に触れた。何度も何度も、文面を読み返す。
私は三ケ月前から、喫茶テリーヌで働いている。既に営業時間が終了した喫茶テリーヌにはオーナーの戸田春彦さんと奥さんの桃さんと私しかいなかった。
「デートしちゃったら?」
桃さんが、カウンター席で手紙を見る私に声をかけた。
「そ、そんな」
「嫌なら、断ればいいじゃない」
桃さんが、カウンターに頬杖をついて私を見ている。桃さんは、この三か月間私に届く無記名のラブレターにロマンスを感じているようで、私の恋の行く末を応援してくれている。最初は迷惑だとしか思っていなかった。恐怖心すら感じた。何かの悪戯なのではないかとも思った。
「こんなことはやめてって、嫌ならそう、伝えればいい」
桃さんはつまらなそうに、声のトーンを落として言った。三か月間私にラブレターをくれるその彼は、手紙の文面を見ても昔から私のことを知っているようだった。どんなに昔のことを思い返しても、手紙の彼が誰なのか一向に分からない。でも、彼は悪い人じゃない。そんな気がする。そして、彼がどれだけ私のことを想ってくれているかは、よく伝わってくる。
「嫌いじゃないんです。ただ…」
「ただ?」
「どんな方なんだろうって」
私は静かに溜息をついた。こんなに想いを手紙で伝えてくれる彼は、どんな人なんだろう。名前のないラブレター、達筆な字。いつの間にか郵便受けに毎日入っている、彼からの手紙。私は彼のことをもっと知りたい。会ってみたい。そんな気持ちが、どうしようもないほどに膨らんでいく。
「心当たりはないの?」
「ないんです。どなたが書かれたのか…」
「でも、何かしら手掛かりがあるでしょ?」
私は、飽きるほど読んだ彼の手紙に目を落とした。手紙の主は恐らく顔見知りで、私のことをよく知っている人。でもそれが誰なのかは、未だに見当がつかない。
「私のことを知っている人としか…」
私は、三か月前に桃さんから手紙を渡された時のことを思い出していた。私宛に来ている手紙の封筒は真っ白で何も書かれていなかった。恐る恐る中身を確認すると、そこには一枚の便せんしか入っていなかった。一番最初に渡された手紙には、「お疲れ様」のただ一言。その次の手紙には、「よく頑張ってるね」という言葉。東京に来たばかりで不慣れな私にとって、その言葉は励みにはなっていた。でも、それと同じくらい恐怖心もあった。誰かに見張られているのでは、という思いが私を恐怖に陥れる。桃さんから毎日のように手紙を渡されるのが、いつも怖かった。だから常にびくびくしていた。そのせいもあって、仕事でミスをすることも多くなってしまって、落ち込むことも多かった。私は何て駄目な人間なんだろう、と落ち込む日々。時間だけが虚しく過ぎていく。私は今も昔も役立たずだーそう思っていた日にもらった手紙に書かれていたのは、「君の頑張りは、ちゃんと誰かが見てる。自分を信じて進めばいい」という言葉だった。私は、その言葉に救われた。最初はあんなに怖かったのに、今では手紙の彼の温かいメッセージを支えとしている自分がいる。
「みーちゃんの熱烈なファンかもよ。ここに来てる常連さんとか?」
厨房から出てきた春彦さんが、桃さんの隣に立っていた。
「恋が芽生えるのも、時間の問題ね!」
桃さんは、まるで自分のことのようにきゃっきゃと声を上げている。
「桃が楽しんでどうすんだよ」
そう言う春彦さんも、楽しそうに笑っていた。
突然、彼からの手紙が途絶えた。あれからもう、一か月以上も来ていない。今までこんなこと、一度もなかったのに。雨の日も風が強い日も、どんより曇りの日だって、快晴の日だって欠かさず来ていたのに。いつも大切に保管しているあの手紙が増えることは、もう二度とないということなの?彼の温かいメッセージも愛に溢れた達筆な文字も、もう拝むことはできないの?そう思うと、悲しくて涙が零れ落ちる。中身のないペットボトルのように、私の中は全て空っぽ。仕事が終わると、喫茶テリーヌの二階にある部屋で、私は彼の手紙を読み返しながら涙を流す。
「ずるいです。どうして、急に…」
 そんな私の呟きが届くことはきっと、一生ない。私は手紙の彼に、恋をしてしまった。彼に会いたいという思いが、どうしようもなく膨らんでしまっているこの状況に、途方に暮れた。手紙が来なくなってから、彼の手紙が来なくなってからは、夜が異常に長く感じる。時間は進んでいくのに、私の時間は止まったままで、まだ会ったことのない彼を想いながら、私はいつも夢の世界へと潜り込んでいく毎日を繰り返していた。
「ねえ、本当に大丈夫?」
桃さんが、私の顔を覗き込んだ。
「だいじょうぶ…」
「寝てないんだろ?今日は休んだほうがいいぞ」
 二人が心配してくれるのは嬉しいけど、休んでも寝れないし部屋に戻ったところで彼のことばかり考えてしまう。だから、どんなに眠くても仕事をして体を動かしていた方がまし、と私は思った。だから、「大丈夫です」と言って私は仕事を続けた。でも、そんな生活を続けていたらいつか倒れてしまう。そんな桃さんと春彦さんの心配をよそに働いていた私だけど、案の定私は眩暈を起こして倒れそうになった。その時、私はしっかりとした手に支えられた。私を支えていたのは、一人の黒髪の青年だった。
「あ…ごめんなさい…」
「大丈夫?」
「はい…」
「無理しちゃいけないよ。大切な体を、しっかり休ませないと」
「あ…はい…」
その青年は、私をカウンターの中まで支えてくれた。
「ありがとうございます」
私は、ふと青年の方を振り返った。青年は、カウンターの真ん中の席に座った。
私はその青年を気にも留めなかった。でも、その青年が再び私の前に現れるのに時間はかからなかった。
「ねえ、みーちゃん。手紙書かない?」
私は目をこすりながら、部屋の入口に立つ桃さんを見た。
「おはようございます…」
「おはよう」
今日は定休日だからゆっくり寝られると思って油断していたのに、桃さんに二度寝を阻止された。
「うー、もう少し寝させてください」
「だーめ、ほらっ!」
桃さんは私のベッドに近づき、私の目の前に真っ白な一枚の紙をつきつけた。
「これは…?」
「紙よ」
「それはわかります。けど…」
気を張っていないと、すぐに目を閉じてしまいそうな私の肩を桃さんが大きく揺する。
「書くのよ、この便箋に!ありったけのみーちゃんの想いをっ!」
「私の…ありったけの…想い?」
 桃さんは、私が彼からの手紙を大切に保管していることを知っていた。彼からの手紙が途絶えたことで調子を崩した私を見兼ねて、励まそうとしている。
「もう、いいんです…。彼からの手紙は、もう」
「諦めるなんて、言わせないわよ!」
私は負けじと桃さんを睨む。桃さんには恨みはないけど、こればかりはどうしようもない。手紙が途絶えた以上、私ができることは何もないしどうすることだってできない。連絡先ながわからないから届けようもないし、どこの誰なのかもわからないんだから。
「もういいんです。もう終わったことなんです」
「何かの事情で出せなくなったかもしれないじゃない!きっと、そのうち来るわよ」
「そのうち、そのうち、っていつ来るんですか…!」
 桃さんはいつもそうだ。私を慰めようとしているのはよくわかる。でも、きっとくる、そのうちくる、大丈夫…。そんな無責任な言葉、聞きたくない。何の確証もないのにそんなことばかり聞かされる身にも、なってよ。現実はそんな、甘くない。
 理想の女性像の桃さんはいつも眩しくて毎日を楽しんで生きていて。私はどんなに頑張っても、桃さんみたいには、なれない。前を向けない日なんて、しょっちゅうなのに。世の中、桃さんみたいな人ばかりじゃない。
「それは…」
勢いの良い桃さんが、言葉に詰まる。
「どんなに待っても、こないものはこないんです…!」
 私は布団をかぶった。結果の良しあしは本人の努力だっていうけど、どんなに努力したって結果が良いものになるかどうかは、わからない。寧ろ、悪い結果になることがほとんどだ。私に限っては。
「そんなことないったら!ねえ」
 桃さんが、布団ごと剥ごうとするけど、私は抵抗する。
「ねえ、起きてよ」
 私の力では桃さんにかなうはずがなくて、すぐに布団を剥がされてしまった。
「いつまでも現実逃避してたって、何も始まらないでしょ」
 そんなこと、わかってる。わかってるけど、これ以上何をすればいいっていうの?
「まずは、起きる!ほら、早くっ」
「ごはんはいりません。私は寝ます」
「だめっ!起きなさい!」
「いーやーだー!」
まだ寝ていたいのと桃さんから解放されたいのとで、私は必死に抵抗した。布団を引っ張る桃さんに負けないように、私は桃さんの手から布団を引き離そうとする。
「おーい、桃~?どこいっ…って、何してんだよ」
桃さんを探しに来た春彦さんが、私と桃さんが布団の引っ張り合いをしているのを見て目を丸くした。
「あっ、春彦。ちょうどいいところに!手伝ってちょうだい」
「手伝う?何を」
「見てのとおり、みーちゃんを起こすのよ」
「休みの日くらい、いいじゃないか。ゆっくりしたって」
「むう~、春彦はみーちゃんに甘いのよっ!」
桃さんが春彦さんを睨む。当の春彦さんは桃さんの睨みに臆せず、私に向かって言った。
「ごはんは食べなきゃだめだぞ。食べよう」
 春彦さんに言われると、なぜか断れない。不思議な気分。静かに頷くと、私はベッドからゆっくりと出た。拗ねる桃さんを宥めるのはいつも、春彦さんの役目。
「まあまあ、いいじゃないか」と穏やかに笑う春彦さんの声を聞きながら、私は一階へと降りて厨房に向かった。
「だからあ、私はこう思うのよ。ねえ、春彦聞いてる?」
「聞いてる聞いてる」
春彦さんは桃さんが話す様子を、頬杖をついて楽しそうに聞いている。桃さんのことがすごく好きなんだなあ、と私は傍から見て思った。
「みーちゃんはもういい、っていうのよ?信じられる?」
「桃、朝から酔ってないか」
「酔ってないわよ!お酒なんて飲まないもん」
「どうだか」
「飲んでない~っ!」
 桃さんが、隣に座る春彦さんの肩を手でポンポンと叩いている。春彦さんは笑いながら桃さんの手を片手で受け止めている。
「自分の気持ちを誤魔化して生きることほど、不幸なことはないの!私は、みーちゃんにそんな生き方はしてほしくない!」
「うん、そうだな」
 春彦さんは、頷いてしっかりと同意した。
「みーちゃん、書けよ、手紙」
焼いたばかりのトーストを一口かじった私に、春彦さんが優しくも強い口調で言った。
「でも」
「後悔なら、いつでもできるだろ。あの時やっておけばよかった、って思うようなことだけはするなよ。やりたいことは、失敗してもやるべきだ。そこから得られることはたくさんある。まずはやってみろ」
春彦さんの言葉にははっとさせられることがたくさんある。
「失敗したりうまくいかないときは、また一緒に考えよう。アプローチを変えれば、上手くいくかもしれないし」
 春彦さんの言葉に、私の心にぽっと灯りが灯ったような気がした。
「わかりました。私…手紙、書きます」
向かいに座るほっとした顔の春彦さんと、目をきらきら輝かせている桃さんの顔が視界に入った。
「いつも彼からだったから…私からも、気持ちを伝えてみたい」
うんうんと深く春彦さんの隣で、桃さんが急に立ち上がって私の手を掴んだ。
「うんうん!よかった、本当に良かった。はい、あげる」
 桃さんが焼きあがったトーストを一枚私に渡した。
「もういいですよ」
「もっと食べなさい!はい、イチゴジャムつけるね」
「はい」
「明日の朝、ポストに入れてあげるから」
「私が入れます…!」
「桃は信用ないんだな」
 桃さんは、イチゴジャムを塗ったトーストを私につきつけた。
「ひどい!私って、そんな信用ないの?そんなことないわよねえ?」
 私に訴えかけるような真ん丸の目を見て、私は思わず笑ってしまった。春彦さんは、噴き出して笑っていた。陽気な桃さんに元気をもらって、自然に笑顔になる。誰もが桃さんの明るさに救われる。そして今日も、私の一日は始まる。僕は、すぐに異変を察知した。いつも通る喫茶テリーヌの周辺で、一人の男が地面に落ちている紙をしきりに踏みつけているのが目に入った。喫茶テリーヌの近くにあるポスト付近にいる男は、僕に気づかず紙を踏んだり蹴ったりしている。不審な動きをする男に、僕はゆっくりと近づいていく。僕に気づいた男は振り返って僕を見るなり、舌打ちをしてそそくさと去っていった。男が去って行った後、僕は汚れて皴だらけになった紙を拾い上げた。その紙は真っ二つに破られていた。しかし、書いていたメッセージは読むことができた。紙だと思っていたのは、白い封筒で、「いつも手紙をくれる貴方へ」という文字があった。封筒の裏には、美優という名前が書いてあった。
「いつも手紙をくれる貴方へ、会いたいです。水曜日の二十一時に、喫茶テリーヌに来てください。待ってます」
封筒に書かれた彼女からのメッセージを受け取った僕は、会うしかないと思った。いや、会わなければならないと思った。彼女が自ら行動を起こしてくれた。その期待に応えるのは、今だ。
「君の期待に、応えない僕じゃないよ」
その呟きは朝の冷たい空気に消えていった。頬が緩むのを感じながら、僕は喫茶テリーヌの空っぽのポストに、書き上げた手紙をすっと入れた。封筒に書き込んだ文字に、愛をこめて。鈍感な彼女でも気付くような、僕らの「合言葉」を。彼女に会えるまでもう少し。明日も頑張れる気がする。僕は雲一つないからっとした青空を見上げ、微笑んだ。先を越された。彼女を、取り戻さなければ。約束の時間の少し前に、僕は喫茶テリーヌに着いた。しかし、外からも聞こえるほどの怒号が僕の身を固くした。定休日の喫茶テリーヌには、今まさに異常が起きている。僕は恐る恐るドアを開いて中へと入った。僕の視界に入ってきたのは、嫌がる彼女を無理やり連れだそうとする男の姿だった。そうだ。僕宛ての彼女の手紙を踏みつぶしていた、あの男だ。
「やめてくださいっ…!」
彼女の悲鳴が、僕に届く。君からのSOSが。
「いいから来い!ったく、なめた真似しやがって」
 彼女は男に手首を掴まれたまま、出口の方にずかずかとやってくる。男を止めようとする戸田夫妻だが、彼女を助けることはできなかった。でも、ドアの近くには僕がいる。男を止めるのは、僕以外にいない。
「邪魔だ、避けろよ」
男は、ドアの前に立ち塞がる僕を見てイライラしている。でも僕は避ける気など、微塵もない。
「その手を離してくれるまでは、ここを一歩も動けないんですよね」
「は?」
 きょとんとした男の隙を狙って、僕は彼女の手首から男の手首を引き離し彼女を背に庇った。そして、すぐさま男の手首を捻りねじ伏せた。
「彼女に手を出すな。今度こんなことがあったら次はないと覚えておけ」
 それでも抵抗する男を、僕はドアに押し付けた。
「誰だよ、お前」
「みーちゃんの婚約者だ」
「はあ?婚約者だと?」
ドアに押し付けられた男は、顔を歪めながら僕を睨んだ。
「嘘つけ。その場限りの嘘は、俺には通用しないぞ」
「その場限りの嘘じゃない。彼女と僕は、そんなに浅い仲じゃない」
 僕は男を押さえた手の力を緩めることなく、彼女を振り返った。彼女は、動揺していた。でも、僕の本気は彼女に伝わってはいると、そう信じたい。 震える声の彼女のもとへ向かった僕は、彼女の目の前で立ち止まった。彼女が怖がらないように、そっと彼女を抱き寄せた。
「そういうわけだ。僕の彼女に今度手を出したら許さない。…わかったら、さっさと出ていけ」
「くっ…、お、覚えておけ」
 男は悔しそうに、勢いよくドアを開けて走り去っていった。男が去った後、僕は静かに彼女を離した。男が出ていったドアを見つめていたけれど、僕は彼女の方を振り返った。
「みーちゃん、大丈夫…?」
 戸田夫妻が、彼女のもとに駆け寄り背中を擦っている。余程怖かったのだろう。さっきまで立っていた彼女が、床にがくんと膝をついて座り込んでいた。手は震えていて、声もなく泣いていた。僕は、うずくまる彼女の目の前に跪いた。彼女の涙は、緩やかな曲線を描きながら頬に伝っていく。時折床にぽたぽたと落ちる涙は、彼女の純粋さを表すように透明だった。僕は彼女に駆け寄り、震える彼女の背を撫でた。なかなか震えは収まらなかったけれど、次第に震えは落ち着いていった。でも、彼女の涙が止むことはなかった。僕は、黙って彼女に一通の手紙を差し出した。彼女は僕を見上げたまま、口を引き結んでいる。
「遅れて、ごめん」
 彼女が、不思議そうに首を傾げる。今も昔も、彼女は人形のように可愛い。
「手紙、なかなか出せなくてごめん。それと…君からの手紙、読んだよ」
 彼女が、はっとして僕の手にある手紙をまじまじと見つめる。
「来て…くださったんですね」
 彼女は僕の手紙を受け取った。片手で涙を拭く彼女が、愛しく思える。
「素敵な方で…よかった」
 彼女は昔から、僕の気持ちに火をつけるのが得意中の得意だ。しかも、無意識に。
「立てる?」
「はい…あっ…」
「ん?」
 僕は彼女に手を差し出して立たせようとするけれど、一向に彼女が立つ気配はない。
彼女は僕の右手を握ったまま、動かない。
「立てない…」
彼女が、不安そうに僕の顔を見上げる。余りの怖さに腰が抜けてしまうのも、無理はない。僕は、彼女の手をしっかりと握って引っ張った。勢いよく立ち上がった彼女は、体勢を
崩して僕の腕を咄嗟に掴んだ。すぐに彼女の手は僕から離れたけれど、僕の頭にはある光景がフラッシュバックしていた。それは、幼い彼女が僕の腕を掴んで離さなかったあの頃の記憶。まるで昨日のことのように、僕は今、思い出した。
「ほらほら、二人とも。そんなところに突っ立ってないで、こっちこっち!」
 桃さんが手招きをして僕と彼女を呼ぶ。彼女を一瞥すると、赤い顔をして俯いていた。
桃さんに名前を呼ばれた彼女は、カウンターに立つ桃さんのもとへと駆け寄った。僕も彼女の後を追う。カウンター席に隣同士に座ると、僕は彼女を見つめる。彼女は黙ってテーブルを見ていたけど、小さな声で呟くように言った。
「貴方は…」
「ん?」
「貴方のお名前を、聞かせてください…」
「平田 守」
「ひらた…さん」
 彼女の柔らかな声を聞くたびに、僕は癒される。僕を癒せるのは、目の前にいる彼女だけ。現に、僕は彼女を見ているだけで癒されている。
「守、でいいよ」
「でも…」
「名前で呼んでほしいな?」
 本当は昔の呼び名で呼んでほしいと思ったりもするけど、大人になった彼女には名前で呼んでほしい。そんな思いが何度も頭をよぎる。じっと彼女を見つめると、困ったように眉を下げていたけれど、ちゃんと呼んでくれた。
「守…さん」
「うん、合格」
 目を細めた僕に対し、彼女は目を丸くしていた。彼女の驚く姿は、僕の好物でもある。
「何か…飲みますか?」
 彼女が、おずおずとメニュー表を差し出した。
「何もいらない。君と、話がしたい」
「そんな…」
 真剣な目で彼女を見つめるけど、照れ屋なところは昔と全く変わっていなくて。そこがまた、僕の恋心を刺激する。
「えーっ!何も頼んでくれないわけ?失礼しちゃう」
「……」
 桃さんが、僕らの間に入り込む。せっかくいい雰囲気だったのに、と黙っていたら、「ねえ、なんか頼んでよ~」と桃さんの我儘が始まる。
「…わかりましたよ。じゃあ、コーヒーで」
 僕の溜息に、桃さんがようやく上機嫌になる。
「私は…紅茶で」
「は~い、待っててね」
桃さんは彼女が気付かないよう、僕にウインクして厨房へ入っていった。隣に座る彼女は、僕がさっき渡したばかりの手紙に触れ、目を細めていた。僕は、彼女の手にそっと自分の手を重ねた。
「手紙は後で読んで。今は僕に集中してほしい」
目を丸くしたかと思えば、すぐに頬を染め俯く。そんな彼女を見ている僕は、きっと頬が緩みきっていることだろう。
「こんな素敵な方から、お手紙を頂いていたなんて…」
 彼女は、恥ずかしいのかなかなか僕を見ようとしない。僕は、彼女が今までどのように過ごしてきたのかを知りたい。どんな気持ちで今まで生きてきたのかも、全部。今日だけじゃ、話は尽きないことぐらい言わずと知れている。でも、彼女の核心に触れなければ彼女を守ることはできないと思った。
「みーちゃんは、今までどうやって過ごしてきたの?」
「それは…」
彼女が、口をつぐむ。言いたくないことが、きっとたくさんあるのだろう。思い出したくないことも、きっと、たくさん。そんな簡単に言葉にできるなら、言葉を濁すことはないはずだ。でも、現に彼女は口をつぐんでいる。それは彼女が今も過去に苦しめられていることを意味していた。
「無理に言わなくていい」
「守、さん…」
「言いたくないことを、無理に聞いてしまってごめん」
「いいえ…!私の方こそ、ごめんなさい…」
彼女は僕に頭を下げた。変わっていない自分を責める癖。その悪癖は直した方が良い。
「みーちゃん、あのさ。僕の話を聞いてくれる?」
彼女は黙って頷いた。僕は、隣にいる彼女の視線を感じながら話し始めた。
「僕は、もとからファッションに興味があってね。憧れていたファッション業界に入りたいと思っていた」
「ファッション業界…。すごいですね」
ちらりと彼女をみると、彼女は目を輝かせていた。
「でも、周りには理解してくれる人が少なくてね」
「どうしてですか?素敵な夢じゃないですか!」
「ありがとう」
思わず大きな声を上げてしまった彼女はすぐに我に返り、上がっていた腰をすとんと下ろした。彼女が素敵な夢だと言ってくれたことが、僕には何よりの褒章だ。
「そんな風に言ってくれる人はいなくてね。周りにいたのは、先入観の塊」
「先入観の…塊?」
「そう。周りの大人たちは皆、先入観の塊だった」
「どういうことですか?」
「ファッション業界に行きたいと言ったら、皆が僕を止めたよ。男がファッションなんて、ってね」
「そんな…」
成績優秀だった僕は、大学に行くことを勧められた。勿論行きたくないわけではなかったけど、憧れを捨てられない僕はファッション業界へ進む道を選んだ。ファッション業界の中でも、僕が一番興味を持ったのはファッションショープランナーという、ファッションショーの演出を手掛ける仕事だった。僕は勉強のためにもファッションショーを見てみたくて、ファッションショーを見に行った。そこで見た眩しい世界とモデルたちの輝かしい姿。湧き上がる歓声の数々。僕はとても興奮していた。ショーの世界観の壮大さに、僕は呆気にとられた。それでも、こんなショーを手掛けられるファッションショープランナーになりたい。
僕はその時、強く思ったんだ。―そんなことを彼女に告げると、彼女は「すごい」とだけ小さな声で言った。
「守さんは、すごいですね」
「すごくなんか、ないよ」
「いいえ、すごいです」
彼女は俯いたまま、しかしはっきりと言った。
「そんなに夢について語れるって、すごいと思います。私には夢が無いから…羨ましいです」
彼女には、夢が無いーそんな、そんな悲しい人生を歩んでいたのか。
「私には特に自信の持てることもないし…」
「そんなことないよ」
「いいえ、そんなことあります。私は、私は何もできないんです。何もできることなんてないんです」
「そんなことない。みーちゃんは立派に、ここで働いているじゃないか」
「でも…失敗ばかりしてしまいます。失敗ばかりでみんなに迷惑かけてしまって、私は役立たずだなって…」
「そんなことない…!」
僕は思わず、彼女を抱きしめた。彼女を驚かせてしまったけど、自分を責める彼女を見ているのが辛かった僕は、彼女を強く、抱きしめた。
「まもる、さん…」
「そんなに自分を責めるな」
「で、も」
「失敗したら、やり直せばいい。改善すればいい。僕なんか、いつも失敗して怒られてばかりだったよ。自分の情けなさに涙が止まらなかった日も、辞めようかと思ったことも何度もあるよ」
「そう、なんですか…?」
「うん。でも、諦めちゃ叶う夢も叶わないって、教えてくれた人がいる」
「その人が、守さんの夢を支えたんですね」
「うん。支えになってはいる。でも…」
「でも?」
彼女が、首を傾げる。僕の言葉を待つ彼女の目を、僕はしっかりと見据えた。
「この時を待ってたんだ」
「この時?」
「みーちゃんに会える、この時を、ずっと。昔からずっと、君を待っていた」
「どういうことですか…?」
「僕らは…、昔に会っているんだよ。そして、約束をした。大きくなったら…結婚すると」
 彼女は、僕の目を見たまま固まった。彼女の目は、明らかに動揺していた。
「そんな…急に言われても…」
 動揺する彼女に、僕は手を差し出した。
「まずは…友達から」
「いやです…」
 すぐに拒否されたことに、僕は戸惑いを隠せなかった。急ぎすぎたか。でも、彼女に会えた喜びが大きすぎて、ついつい想いが零れてしまった。
「そうだよな。たった今会った奴に、そんなこと言われても困るよな」
 僕は、溜息をつきながら呟いた。
「友達…」
「ん?」
 彼女が小さな声で、何かを言い出した。僕は聞き取れずに、思わず聞き返した。
「友達じゃなくて、友達以上恋人未満から始めます…」
「みーちゃん…」
 僕は目を見張った。彼女の口からそんな言葉が出てくるとは、思ってもいなかったからだ。彼女は柔らかく微笑み、躊躇いがちに僕の手に触れた。
「ありがとう、みーちゃん」
「いいえ…」
 彼女の手が、控えめに僕から離れていく。寂しさを感じたのは、彼女の小さな手の温もりが昔と変わらなかったから。
「あっ、そうだ。今度、一緒にどこか行かない?」
「はい、是非…!でも、どこかってどこですか?」
「みーちゃんは、アクセサリーとか服には興味ある?」
 彼女は嬉しそうに頷いた。
「連れていきたい店があるんだ。みーちゃんもきっと、気に入ると思う」
「わあ、楽しみです…!」
 彼女の曇りのない笑顔を見て、僕まで晴れやかな気持ちになる。
「約束、ね。日時は追って知らせるよ」
 また手紙を書くよ、と言うと嬉しそうに彼女は頷いた。
「ここにも、来てくださいね」
 彼女がぐるりと店内を見渡した。ここは居心地の良い場所ですから、とだけ言って視線を
カウンターテーブルに落とした。
「うん。来れるときは、すぐに飛んでいくよ」
「ふふ、飛んでいくって。大袈裟ですよ」
「大袈裟じゃないよ。大真面目で言ってる」
 僕と彼女は、互いに顔を見合わせた。暫く僕らは見つめ合っていたけど、彼女の笑顔に
つられて、僕も噴き出した。やっぱり僕らは、相性が良い。
「ふふふ、変なの」
「変なの、ってなんだよ」
 彼女が笑ってばかりいるので、「そんなに笑うなよ」と言ったけど、僕は彼女の笑顔を見ながら、小さな幸せを噛みしめていた。僕は、彼女を連れていつも馴染みにしているアパレルショップを訪れた。中へ入っていくと、いつもの女性店員、新木が駆け寄ってきた。
「あら、平田さん!いらっしゃいませ。…おひとりですか?」
「…え?いや、一人じゃないよ」
 僕が振り返ると、さっきまでいた彼女がいないことに気付いた。
「あれ?みーちゃん?…ちょっと待っててよ」
 僕は新木に断りを入れて、店の外へと出た。店の外には、地面を見つめて立っている彼女がいた。僕は彼女に近づき、声をかけた。
「みーちゃん、どうした?入ろう」
 彼女は首を横にふるふると振った。
「こんな素敵なお店に入っても…私に似合うものなんてありません」
「そんなことないよ」
「いいえ…ここって、あの有名なブランドのお店でしょう?私にはそんな高価なもの…」
「みーちゃん、いいからおいで」
「あっ…守さんっ!」
 僕は彼女の手首を掴んで店の中へと入った。彼女は遠慮したけれど、彼女の手首を頑として離さない僕に根負けした彼女は、抵抗するのをやめた。大人しく僕についてきた彼女を見た店員が、僕に駆け寄ってきた。
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