教材室にて。
序章
一節 幕開け
下校の音楽。
遠のいていく複数の人間のものだと思われる足音。
机を挟んだ向こう側に座っている『女教師』の貧乏揺すり。
気がつくとその不快な三重奏の中に私はいた。
あまりに耳障りなもので、ついついポケットに入っている音楽プレイヤーとイヤホンに手を伸ばしてしまう。
…何故私は此処にいるのだろう。
不安に包まれる。
『女教師』に尋ねるか…?
否、『女教師』は私の存在に気づいていない。
私の目の前で、ずっとスマートフォンをいじっている。
急に話しかけ、驚かれるのも『彼女』を不快にするだけだ。
私は少しでもこの状況にいる理由を思い出そうと周りを見回した。
薄暗い中でもはっきりと見える奇抜な色の背表紙の教科書。
ダンボールに収まりきれていないプリントの山。
普通のサイズより数倍大きい、黒板用のコンパスと三角定規。
どうやら此処は職員室の隣の教材室のようだ。
マスクをしていたため気づかなかったが、少し埃っぽい。
場所が分かり少し落ち着いたのだろう、鈍かった思考が動き出す。
…でも何故私は教材室にいるのだろう。
目の前にいる『女教師』を見ながら考える。
すると私の視線に気づいた『女教師』はスマートフォンをジャージのポケットにしまい、声をかけてきた。
「気分はどうだ?」
私は『女教師』から近くの窓へ目を逃がした。
薄暗い教材室も外の黒い雲には敵わず、僅かな室内の光の反射のせいか、窓はモノクロの鏡のようだった。
その鏡に映り込んだ『女教師』は自分が正義だと言わんばかりに笑みを浮かべている。
いつの間にかあの不快な三重奏は『女教師』の貧乏ゆすりの独奏になっている。
雑音を立てながら『女教師』は口を動かした。
「…みんないい評価が欲しいから先生に媚びを売るんだよ。」
唐突な言葉。
私は窓から目を離さなかった。
いや、離せなかった…というのが正しいのかもしれない。
今『女教師』に目を向けると反論してしまいそうだから。
『彼女』の言葉を聞き流すように努めたが上手くいかない。
何かふつふつと湧き上がるものを感じ、心の中で毒づき始めていた。
何を言ってるんだ。この『教師』は。
『教師』は生徒皆が媚を売っている、と決めつける権限があるのだろうか。
媚を売っている人間もいるが、売っていない人間だって存在する。
現に私は評定なんてどうでもいい。
友人と呼べる人や趣味が無い私にとって、打ち込めるものと言えば勉強くらいだった。
おかげで酷い評定でもカバー出来るくらいには得意だ。
全ては評定のため?
生徒は皆『教師』に媚を売る人間だ?
ふざけるのも大概にしてほしい。
『教師』が決めつけることでは無い。
目を合わせない私に対し、『女教師』はやれやれと言わんばかりに溜息をつくと、面倒くさそうに口を開いた。
「○○は、他の子がこうやって先生に媚を売っているのを笑うのか?『...気持ち悪い 』って。」
私のことを知らない人間に人格を否定された気分である。
『お前』は私の何を知っている?
遂に怒りが私の体を乗っ取りかけたその時、脳に衝撃が走った。
あれは…何時間前くらいのことだろう?
朝、登校すると、昨日下駄箱に入れた私の上履きが消失した。
辺りを見回したがそれらしき物も無い。
どうすることも出来ず、白い靴下で廊下を歩き始めると、進行方向からある一人のクラスメイトがやって来て、すれ違いざまに声をかけてきた。
「上履き、どうしたの?」
普段会話しないのに、と思いながらも、失礼にならないように私はきちんと返答をした。
「知らない。登校したら下駄箱に無かった。」
「ふーん。大変だね。」
とあくび混じりの声でクラスメイトは私に言葉を投げた。
が、すぐに目を見開き、大声で悲鳴のようなものを響かせた。
「え!?それって盗難じゃん!!○○ちゃん可哀想!!一緒に探してあげる!」
急なクラスメイトの変貌ぶりを目にした私は驚くと共に、その真意を探そうと考え始めた。
·····後ろがガヤガヤと騒がしい。
「盗難...?」
「それってやばくね?」
「こんな女の誰が盗るんだよ!」
どうやら、教室に向かおうとした私の後ろには、登校してきた生徒が何人もいるみたいだった。
視線を白い靴下に移す。
廊下を靴下で歩いたためか、埃や砂で汚れていた。
私は酷く恥をかいた気分になった。
『上履きを盗られた可哀想な生徒』
というレッテルを、クラスメイトの悲鳴を聞いた大勢の人に貼られてしまう。
私を【可哀想な人】にしないでよ。
両目から自然と涙が零れてきた。
そんな私を見たクラスメイトは叫んだ。
「大丈夫!?」
同時に、ここぞとばかりに私の背中を撫でる。
気持ち悪い。
気色悪い。
何も私の事を知らない人間の手が私の背に触れている。
私はその場から逃げるようにしゃがみ込んだ。
するとクラスメイトもすぐに体勢を私に合わせ、私の背中を撫で続ける。
気色の悪さで吐き気を催した私の目の前を偶然通りがかった『女教師』が、立ち止まり私に言葉をかけた。
「○○は体調が悪いのか?大丈夫か?○○はいい『友人』がいて幸せだな!」
友人…?
私を【可哀想な人】として見立て、大勢の人の前で自分がいい顔をしたいがために心配するふりをするやつが…?
言い返したかった。
こんなやつ、【友達】なんかじゃない、って。
しかしその一言を言ってしまえば私の立ち位置はまた変わる。
【影の薄いクラスメイト】から
【ムカつく奴】へ。
感情を落ち着かせようと周りを見渡した。
ギャラリーができていた。
多数の人間の目に、私が映っている…
どんな【私】が、皆の目に映っているの?
【可哀想な人】?
【構って欲しいから事件を起こした人】?
【大袈裟な人】?
【いじめられている人】?
…もう限界。
汚い話、私は堪えきれず廊下で戻してしまった。
と、同時に悲しさに心を占拠された。
さっきまで背を摩っていたが戻した私を見て、私自体を汚物のような目で見るクラスメイト。
さっきまで私の後ろにいたのにそそくさと教室に向かうギャラリーたち。
早退などの手配といった仕事を増やされ不服そうな顔をしている『女教師』。
彼らたちを最後に、私の視界は真っ暗になった。
そして気がつくと、薄暗く埃っぽい空気の中にいた。
この教材室に。
なぜ忘れていたのだろう。
いや、覚えていても不快なだけだ。
なんなら思い出したくもなかった。
あの気持ち悪さが再度胃に押し寄せてくる。
私は数時間前の不快感から身を守るように手で胃を抱えた。
そんな私を横目に、『女教師』は気だるそうに口を開いた。
「お前も欲しいくせに。良い評価が。」
思わず耳を疑ってしまった。
私はあのクラスメイトと同類だと思われてるということ…?
決めつけられ、不快感を覚える。
すかさず私は胃を抱える手に一層力を加え、反論した。
「私は等身大の評価が欲しいだけ。偽りの、良い数字なんて要らないです。」
そう言い放つと『女教師』の濁った目は反論する私を凝視した。
…何?やめて。そんな目で私を見ないでよ。
「○○は大人なんだな。
…でも知ってるか?
お前みたいなやつは【問題児】なんだよ。
他の媚を売っている生徒よりも。」
吐き捨てられたその言葉は私の神経を逆撫でするのに十分だった。
今まで受けてきた様々な陰湿な嫌がらせよりも。
給食の時間、制服に牛乳をかけられたり、
教科書に虫の死骸が挟まれていたり。
それこそ上履きが無くなっていたり、
シカトされる方がまだマシだ。
私が黙っていれば何事も無かったようになるから。
私は私のままでいられる。
【可哀想な人】などと、形容される覚えは無くなる。
それが何?
私が【問題児】…?
嫌がらせにも耐え、勉強も頑張っている私が…?
私は胃から手を解放し、目の前の机を叩き立ち上がった。
鈍い音が響く。
気がつくと『女教師』の首に向かって手を伸ばしていた。
『女教師』は私の手を表情も変えずに払い除けた。そして静かに私を見据えていた。
今にも溜息が聞こえてきそうな、呆れ…いや、軽蔑している目で。
『彼女』の目を見た瞬間、私の腕が震えているのに気づいた。
私はしどろもどろ払われた手を引っ込め、慌てて廊下へと飛び出した。
後ろから聞こえてくる『ノイズ』を聞こえないふりして。
それから数ヶ月後。
私はその学校を卒業した。
だが、【卒業した】という事実にどうも実感が湧かない。
あの教材室の出来事から毎晩、『女教師』に空き教室に呼び出される夢を見続けている。
寝て『彼女』の顔を思い出すことや【問題児】と言われることに怯え、私はより一層勉強にしがみついた。
寝る暇があれば勉強。
自分の体力の限界に到達し倒れるように眠るのが私の日常になった。
こうして2度、入学・卒業を繰り返し、今度は赴任することになった。
あの『女教師』がいた学校に。
教材室での出来事からもう7年も経っているが、嘘のように校内は変わっていない。
変わっているのは教員だけ。
『女教師』の姿は今や校内に無いが、授業準備の際に教材室に足を踏み入れると、私の耳にはいつでも、あの貧乏ゆすりの音が甦ってくる。
『先生』。
私はもう一度『貴女』の犠牲者を増やさない為…所謂、【復讐】する為に教師になりました。
『貴女』には
【可哀想な人】や
【自覚もなく媚びている人】、
【問題児】
というレッテルを貼られた。
正直恨んでいます。
何故私の行動の理由や気持ちを一度も尋ねてくれなかったのですか?
何故『貴女』の思うことは世の事実と言わんばかりに決めつけるのですか?
私はただ、【○○】として、一人の自立した人間として見て欲しかった。
中学生によくある、承認欲求が強かっただけ。
私は、これ以上『腐った大人』にレッテルを貼られ苦しんでいる子どもを減らしていこうと考え、尽力するつもりです。
…本当は私は私の【正義】を確かなものにしてくれた『貴女』に僅かながら感謝するべきなのでしょうね。
生憎私は、『貴女』に対し感謝を抱くような良心は持ち合わせていません。
寧ろ目の前にいたらあの時みたいに『貴女』の首に手を、最悪の場合は紐を廻したり、刃を向けてしまうでしょう。
私にとっては、ろくでもない『貴女』ですが、
『貴女』を大切に思う人はいると思います。
『貴女』を失い、その方々を悲しませない為にも、
私は二度と『貴女』に対面しないことを願います。
『先生』、さようなら。