ビタースウィートメモリー
勇気を振り絞り、出会ってから今まで一度も呼んだことのない名前を呟く。
呼び終わるなり、大地の手が悠莉の顔の右半分を包み込んだ。
彼が身を乗り出す気配に、悠莉はそっと目を閉じた。
唇に伝わる熱が心地よくて、ねだるように唇を押し付ければ、それに応えるように舌が滑り込む。
悠莉の官能を引き出すように、大地はどこまでも丁寧に舌先を弄ぶ。
体の芯が疼く感覚に眉根を寄せ、苦しげに息をこぼす悠莉に、大地は笑みを深めた。
「悠莉、愛してる」
耳元に唇を寄せそう囁かれ、また心臓が早鐘を打つが、やられっぱなしは趣味ではない。
素早く大地の首根っこを捕まえ、耳を甘噛みして囁き返す。
「知ってる。でもあたしの方が愛してるから」
精一杯の悠莉の仕返しに、大地は楽しげに口角を上げた。
「帰るか。明日も仕事だし」
「おう」
どちらともなく手を繋ぎ、駅までの道のりを悠莉はわざと速度を落として歩いた。
それに気づいた大地は、あまり話さなかったここ最近の隙間を埋めるように、途切れることなく話し続けた。
それに頷き、時には話題を奪い、ふざけたりしているうちに、駅が見えてきた。
この時間なら会社の知り合いはいないだろうが、ここは会社の最寄りからそんなに離れていないため、警戒した悠莉は大地から手を離した。
「なあ小野寺」
「名前で呼べって言っただろ」
「すぐに切り替えられるかよ。あたし達の関係なんだけど、公表するのか?」
最後の一言で、大地は悠莉の言わんとしていることを察した。
二人が勤める会社は、社内恋愛は禁止ではない。
むしろ、既婚の社員の三人に一人が社内恋愛がきっかけであるくらい盛んである。
となれば、晴れて付き合ったのだから公表しても問題がないはずなのだが、悠莉がそれを躊躇ったのはひとえに大地が相手だからだ。
「今度こそお前のファンクラブに殺されるな」
今までは友達であったため、ファンクラブも表立っては悠莉を攻撃してこなかった。
チクチクと嫌味を言われることはあるが、それだけだ。
しかし、これからは……。
「確かに、俺たちが付き合ってるとバレたら仕事しにくいな」
「お前よりあたしが問題だ。経理だけじゃなくて、営業の仲間から広報、庶務まで敵に回すことになるんだぞ」