いつもスウィング気分で
 ベッドサイドテーブルの上のタイマーがカチンと鳴ってリビングのステレオからエンドレステープに録ったスタンダードジャズが流れ出す。俺の胸でうずくまっていた森田秋子がもぞもぞと動いた。
「ケニードリュー?」
「MJQだよ」
「エラのスキャットも素敵よ」
「朝はバイブが良いんだ」
「バドワイザーが欲しくなるわ」
「出勤前のビールは無理だけどコーヒーなら出来てるよ」
 俺の朝はタイマーじかけ。コーヒーもトーストもワンプレイが終わると出来上がる。もちろん豆もパンも寝る前に仕込んでおく。夜中に停電したら悲惨だろうが、幸い今までそんな事故は無い。優雅なブレックファストインベッドだ。
 熱いコーヒーの入ったカップを彼女に渡した。
「ブラックで良いかな」
「うん」
 ベッドカバーを胸まで上げて、彼女はベッドに座ったままそれを受け取った。手を伸ばしながらもう片方の手で髪を掻き上げた。その手を頭から離さないまま1口コーヒーを飲んだ。
「これはなあに?」
「豆のこと?」
「そう」
「マンデリン」
「美味しい」
 8時にここを出れば8時半には会社に着く。今6時を30分過ぎた。ベッドでゆっくり朝食を摂りゆっくり新聞に目を通す。混んだ電車の中に読み物を持ち込むことはしない。第一無神経だ。時間が無いという以前の問題だ。奥さんが朝食を用意してくれるなら尚更。俺は断固として朝食と新聞はベッドの上だ。
 BGMはエンドレステープのウェイヴ。もう1年近くこの曲なので、そろそろ変えようかと思っているが、いろいろ候補の曲を挙げてみてもこの曲以上に目覚めに聴きたい曲が無い。可愛い奥さんがキスで起こしてくれることでもない限り、テープが擦り切れるまでこの曲で目を覚ますというのも情けない話だ。
「私は6時に起きるの。アラームがピヨピヨ鳴り出して―結構うるさいのよ―彼が手を伸ばして止める。私が起きる。カーテンを開ける。ポストから朝刊を取って来てベッドの枕元に置く。エプロンをして2人分の朝食を用意する。その間彼はベッドで新聞を読んでいる。シャワーを浴びる時もあるわ。最近ね、枕元に新聞を置くのが乱暴だって言うの。以前はもっと優しかったって。笑っちゃうわ。
「朝食を2人揃って食べて私が後片付けをし、彼は身仕度。彼を送り出すと7時半。会社横浜なの。そして私1人部屋を掃除。彼が先に帰って来た時部屋が散らかってたらイヤだもの。服を着替えてお化粧して8時13分の電車に乗るべく部屋を出る。
「ね、まるで主婦でしょ。一般的な共稼ぎ夫婦を演じるための我慢を1年半続けて来たわ。大家さんにね、婚約中だってことにしてあるの。最初は罪悪感でいっぱいだったけど、もう慣れっこになっちゃった。動く女と動かない男は第三者から見れば理想的なカップルに映るらしいわ。私の努力と彼の無関心がもっともらしく見せてる」
 そう言って彼女は俺を見た。俺は少し眉を動かして次の言葉を待った。
「ごめんなさい。そんな生活から逃げ出すためにここに来るの」
 望むところだ。同棲なんて動機は不純なんだ。少なくとも俺は嬉しい。
 彼女がシャワーを浴びている間、俺はさっさと服を着て出掛ける準備をした。髪をタオルでクシャクシャと拭きながら、裸のまま彼女はバスルームから出て来た。
「一緒の電車で行くのはまずいな。渋谷でいろんな奴に会うからさ。渋谷で乗り換えの奴多いんだぜ」
「ネクタイはこっちの方が良いわよ」
 バスタオルを体に巻き付けて彼女は言った。
「そういうのを女房面って言うんじゃないか?」
 彼女はアッカンベーをした。感情を抜きにして彼女と単なる同居というのは俺には難しい。思いやりも気遣いもどんどん深くなって行くだろうし。そのうち彼女に負担を感じさせてしまうかな。
「行ってらっしゃいって言うのも女房面?」
「うむ、挨拶は仕方ないね」
 彼女は肩をすくめた。
 マンションのエレベーターのボタンを押す指が弾んでいる。色気づいた生活に気持ちが浮き立っている。待て待て、これからが大変なんだ。忘れちゃいかん。まず彼女をあそこから連れ出さないことには。
 会社には30分近く早く着いてしまった。まだ誰も居ない。
 席に着いてしばらくすると彼女の机の電話が鳴った。交換が外線だと言い、回線が切り換わった。
「はい、森田のデスクです」
「もしもし」
 なんだ、森田秋子本人だ。
「ひどいわ。鍵を置いてってくれてない」
 そうか、うっかりだ。ズボンのポケットに手を入れると小銭に交じってキーホルダーが出て来た。浮かれ過ぎだ。
「すまん」
 ガードマンに合鍵を借りれば済むが、うちのガードマンに彼女を交渉に行かせたくない。これから戻るにももう時間が無い。
「仕方ないわ。今日は風邪引きました」
「OK、そう報告しとくよ。有給1日損したね。今迄無欠だったろ」
 皆勤は金一封だ。最近では誰も狙わなくなったが。
 帰りに合鍵を作らなくてはと思っていたところへ再び彼女の電話が鳴った。俺はてっきり彼女が掛け直して来たのだと思い込み、交換の声の後気安く応答してしまった。
「今度は何だ」
「もしもし」
 受話器から聞こえた声は男だ。聞き覚えのある声だ。少し鼻にかかった弱々しい響きのあるこの声。
「失礼しました。森田のデスクです」
 ちらりと時計を見た。9時迄後10分。
「恐れ入りますが森田秋子をお願いします」
 彼女を呼び捨てにする俺よりはやはり若いのだと感じさせるその声・・・奴だ。無断で外泊した女房の勤務先に電話を入れている夫然とした声のその男。ジェラシーとザマァミロという気持ちが入り混じって、少々険のある口調で俺は応えた。
「森田は今日は欠勤すると先程連絡がありました」
「そうですか」
「伝言いたしましょうか。今日は金曜日ですので、お伝えするのは月曜日になります」
「いいえ結構です。どうも」
 ぶっきらぼうに電話は切れた。彼女の不在に敵は動揺した。今夜彼女が部屋に戻った時奴はどんな顔をするのだろう。かつて彼女に指輪を贈りながらあっさりと捨てられてしまった男のように、奴もまた何の前兆も無く別れを宣告されるのだ。いずれは俺もそういう目に遭うかもしれないという危惧はある。が、今の俺には彼女が俺の部屋に居るという事実が救いだ。
 相手の男の声を聞いただけなのだが、その日1日ひどく塞いだ気分だった。彼女は確かに逃げ出したいと言っている。だが不安だ。奴の留守を狙って済ませてしまおうと言っている引っ越しも、いざその時が来て2人で暮らした部屋を見回した時、やっぱりよすと言いはしないか。だがその不安は彼女も同じかもしれない。
 俺の気持ちが変わる不安は無いだろうか。やっぱり君を受け入れられないと言われはしないかと、独り俺の部屋で思ってはいないだろうか。
「森田さん来ないですね」
 社員食堂で田中が俺の向かいに席を取った。
「風邪だとさ」
 いつもは森田秋子が座っている俺の隣に若杉が陣取って俺の代わりに口を開いた。
「珍しいなぁ。彼女は研修中に熱があっても出勤したくらいですよ」
「よっぽど悪いんだろう。風邪じゃないかもしれないし」
「ずる休み? それは無いですよ」
「いいやそうじゃない。女だったら色々あるだろう」
 若杉の奴、話の次元の低い奴だ。そういう話をすれば人が喜ぶと思っている。カラオケと猥談が奴のシンボルだ。田中が顔をしかめた。
「昨日は黒瀬と一緒に帰っただろう、彼女」
 下から覗き込むように首を縮めて若杉が言う。呆れて物も言えない。確かに彼女は俺の部屋に居るよ。だがお前なんかに言うわけねぇだろ。
「真っ直ぐ帰ったようだったけどね」
 俺は軽く受け流した。何をどう言おうと若杉は、俺が彼女をどこかに誘って何かやったんだぜと言って、皆の笑いを取ろうとする。何やら卑猥な事を若杉が言い、2、3人がくくくと笑った。馬鹿め。
「俺、見舞に行こうかな」と田中が言った。
 誰も何も言わない。セクションツーの女狐どもが、少し離れた所からチラリと田中を見、口を歪めた。
 午後になって急遽締め切りが早まったプログラムのメンテが1本ある。幸い9割がた終わっている。あと1割テストデータを元に結果を出し、チェックしなければならない。組みっ放しではなく実際にカットオーバー可能の状態で引き渡す契約だ。今日は残業決定だな。テストデータは以前作成したのをまだ保存してあるからそれを使う。テストはTSOで居ながらにして出来る。リストはマスターコンピュータールーム迄引き取りに行くから良いとして、リストのプリントアウトには枚数分時間がかかる。プリントのプライオリティーをチーフ権限で上げてもらっても、アップまでかなり時間がかかる。その後は1件1件結果のチェックだ。部屋に居る森田秋子は俺が帰るまで出られないが仕方が無い。仕事優先だ。彼女のことは夜中になっても車で送って行こう。もう1晩泊まってくれたら俺は嬉しい。
 自分の部屋の電話番号を押す。10年以上この番号だ。脳味噌にこびり付いている。だが自分の部屋に外から電話したことなど数える程しか無い。指が慣れていない。呼び出し音を2回鳴らして切り、もう一度掛け直す。0発信なので少し時間がかかる。1人に1台電話があるのは結構だが、外線へ発信できるのはチーフ以上の電話だけだ。合図を決めていたわけではないが、彼女は理解したらしく掛け直しの呼び出し音の2回目で出た。
「はい」
「あ、俺」
「はい」
「残業する羽目になった」
「あー」
「どうしようか」
「仕方無いわ」
「ごめん」
「良いわ、今日も泊まる。泊めてくれる?」
「もちろん。かえって悪いね」
「今、昼休みね」
「そうだ。何してた?」
「掃除、洗濯、居眠り」
「専業主婦だ」
「イヤな言葉」
「あ、今朝君の彼から電話あり」
「何か言ってた?」
「別に何も」
 10時まで残業し、仕事は完璧に終わった。考えてみると、今日森田秋子が出勤していれば彼女に手伝ってもらえたのだ。そうすれば定時には終われたはずだ。全くついてない。
 部屋に着くと彼女は俺のバスローブを着てソファに寝そべっていた。左手にアイスコーヒーのグラスを持ち、右手に持ったテレビのリモコンでキッチンのワゴンを指し、夕食よと言った。俺が、おっ、と言うとリモコンでチャンネルを替えながら、昨日と同じなのと言った。
「君、こういうの嫌いじゃなかったっけ」
「今日は特別よ。一日中暇だったんですもの。暇なのに何もしない女じゃない。それから・・・」
 それから? 彼女はソファに座り直し、グラスをテーブルの上に置いた。
「何?」
「帰るわ。車で送って」
「服は?」
「洗濯してもう乾いた」
「もうここには来ないってこと?」
「違うわよ。いろいろ準備をしなければならないでしょ」
「彼は?」
「出張で居ない」
「どうしてわかった」
「さっき電話したの。留守電でそう言ってた。青森ですって」
「青森?」
「そう。下請けの工場があるの。指導かなんかで前にも行ったことがある」
「いつ帰る?」
「彼? 火曜日ですって」
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