いつもスウィング気分で
Moving in
エレベーターの前に荷物を運びながら俺は彼女に訊いた。
「彼はこの部屋に1人で住み続けるのかな」
「多分ね」
「部屋代1人で払えるのか」
「平気よ。会社が全額負担してるんだもの」
「本当? 凄く良い会社だね。じゃあ君たちはタダであの部屋に暮らしてるわけ?」
「そういうこと」
「一緒に住んでることが彼の会社にバレてないんだ」
「そういうことは要領良くやるから。田中君がリークさえしなければ私だってバレずに済んだのに」
「住所変更どうする?」
「しない」
「電車の定期券、代々木上原のまま支給されるよ」
「払い戻して買い直す」
「そうか」
段ボール箱の1つは後部座席に納まった。2つは無理だ。トランクに入れた。蓋を閉めると鈍い音がした。箱が潰れたのだ。
俺の部屋に荷物を放り込んで次に代々木上原に戻って来たのは3時だった。まだ暗い。
「疲れたわ」
そう言うと彼女はベッドに倒れ込んだ。
「朝まで眠りたい」
彼女は傍に居る俺の腕を引っ張った。俺がシャワーを浴びたいと言うと、彼女は、どうぞと言ってすぐに手を離してくれた。
「その間に眠ってしまっているかも」
「構わないよ」
いつでも程良い温度の湯が出るように調節されているそのシャワーは、水圧が高くとても心地良かった。流石に高い部屋は違うな。
軽く汗を流して部屋に戻ると彼女は裸でベッドの中に居た。眠ってはいなかった。
「抱いて」
「ここで?」
「そうよ。いけない?」
いけなかないけど気が進まないな。君とあいつが2人で寝るためのベッドだぜ。
「アラミスが残るよ」
「気にしないで」
彼女は俺のTシャツに手をかけた。
「脱いで、早く」
ベッドから起き上がって俺に抱き付いた。俺が脱いでいる間も抱き付いたままでいた。
「その気になってるくせに」
「その気じゃなくてもこうなるさ」
「変態」
俺のベッドとは違う匂いがする。俺は違う男の存在を意識しながら彼女を抱くわけだが、彼女はこの部屋のこのベッドで自分を抱いた奴のことを思いはしないのだろうか。変な感じだ。だが俺はいつものように彼女を抱くことが出来た。彼女は今このベッドで目を閉じ俺のことを思っているだろうか。奴に、他の男とこのベッドで寝ただろう、アラミスを付けた奴だろうと言われた時、彼女はどう言い訳するのだろう。あなたにそんなこと言う資格は無いと言えるのだろうか。彼女はただ、激しく喘いでいる。
次の朝、彼女は俺より早く目を覚まし、シャワーを浴び、新聞に目を通し、朝食を作り終え、そしてようやく俺を起こしに来た。手に持ったアラームを俺の耳に近付けて、起きてと囁いた。ピヨピヨという音が次第に大きくなり、最後にはピーという連続した音になる。ここまで来るとかなりうるさい。
「わかったよ。起きるよ。起きるから止めてくれ」
実を言うと彼女が起きたのと同時に俺も目を覚ましていた。他人の部屋では身の置き場が無いし、彼女が自分の部屋でどんなふうに過ごすのか見たかったので、寝たふりをしていた。
「朝ご飯が出来てます」
「悪いね」
「どういたしまして」
彼女はTシャツを1枚俺に放ってよこした。それには軽井沢のペンションのロゴが描かれていた。
「気にしないで着て」
断るところを見ると奴の物らしい。
「彼氏と2人で行ったんだ」
「そうよ。着るのイヤ?」
「そんなことはない」
「そんなのばっかりよ」
「そんなのばっかり?」
「私の世界を構成する物には多かれ少なかれ男が係わっているわ」
「例えば?」
「男からプレゼントされた物、借りてて返していない物、ペアで揃えた物、エトセトラ」
「へえ」
「だから気にしてたらキリが無い」
「そりゃそうだ。下着1枚にしても男が触れなかった物は無いだろうし」
「すっごいイヤミね」
そう言って彼女は本気で顔をしかめた。おっと危ない。ジェラシーは禁物だ。ましてや自分のことを棚に上げてはいけない。俺だって彼女に負けず劣らず遊んだのだ。これから傷を舐め合う相手を妬いてもしょうがない。
「ユーモアで言ったんだぜ」
「良いわ。私もいつかあなたに対してそんなこと言うかもしれないし」
そう言って彼女はたった今スイッチが切れたオーブントースターから厚切りのチーズトーストを取り出し、皿に載せた。ダイニングテーブルにはスクランブルエッグとカリカリベーコン、胡瓜とレタスとトマトのサラダ、オレンジジュースがもう既に用意され、俺たちが席に着くのを待っている。俺は多分奴がいつも座る側なのだろう、キッチンに遠い方の椅子を与えられた。
「10時には出ましょう」
「あと1時間しかないよ」
「大丈夫よ。残るは電気製品だけですもの」
「俺んちとダブる物は置いてけよ」
「そうね・・・でもオーブントースターは持ってくわ。私、ただのトーストよりカナッペの方が好きだから」
オーブントースターはタイマースタートが出来ない。が、彼女が自分で起きて用意するのだろうから、俺の関知するところではない。良いよと答え、ジュースを飲んだ。
電話機を外し、ラジカセのコンセントを抜き、アイロンとアイロン台をクロゼットから出し、カメラと懐中電灯とブレンダーを紙袋に入れ、オーブントースターをキッチンユニットから降ろした。200本は有ると思われるカセットテープが収納されたカセットラックを2人で運び、これで全部よと彼女は言った。
「本当は扇風機もこたつも私のなのよ。でもあなたも持ってるでしょう?」
「いいや、持ってない」
「あら、じゃあ持ってかなくちゃ」
「俺の部屋、要らないんだ」
「あ、そっか、冷暖房完備だったわね」
俺が車に積んでいる間、彼女は食器を片付け、簡単に掃除をした。1人で運んだので3往復した。二度目の荷物はトランクに納まった。最後に彼女はバスルームの洗面台から化粧品をポーチに入れて持って来た。この部屋に彼女の物は1つも無くなってしまった。
「一緒に住む時にダブる物は全て処分したの。処分されたのは殆どが私の物だった。私のは安物だったから」
そう言って彼女は苦笑した。
「代官山に着いたらすぐに電話しなくちゃ」
「いつ付くかな」
「混んでる時期じゃないから頼み込めばすぐに取り付けてくれるわよ」
予定の時刻より10分早く俺たちは代々木上原を出発した。
「もう二度と来ることないのね」
「わからないぞ」
「どうして?」
「恋しくなるかもしれない」
「それは無いわね」
「どうかな。それに出張から帰って来た彼がここで話し合いたいと言ったらどうする?」
「ここには来ない。ベッドに押し倒されたら逃げられないもの」
そう言って彼女はシフトノブに乗せた俺の手をぶった。俺は横顔で軽く笑った。
部屋に着くと彼女は俺の電話で電話局に電話した。渋谷区内の移動であることと、もう既に電話があるところに別に取り付けるのだということを説明すると、午後には工事出来るという答えが返って来た。書類上の手続きは住所変更だけで済むそうだ。彼女は大喜びで電話を終えた。
「ラッキーだわ。今日中に付くって」
それから俺たちは急いで彼女の荷物を整理した。衣類はタンスを買うまで段ボール箱のままベッドルームに置く。キッチンやクロゼットは彼女の荷物を置いてもまだ余裕がある。
「少ないね」
「それだけ捨てた物が多いってことだわ」
「お互い様だ」
昼過ぎ、電話は取り付けられ、一旦死んだ電話は元通り呼吸を始めた。ベッドルームにチェストを置くまでは電話の置き場が定まらないが、じきに解決する。
「電話番号が変わってないとなると彼氏からかかって来る可能性ありだな」
「そうね、仕方無いわ」
さらりと彼女は言った。そうさ、俺が気にすることじゃない。何度言えばわかるんだ、黒瀬陽一。森田秋子はお前の女にはならないぞ。
「腹が減った」
「同じく」
「どっか食べに行こう」
「そうしましょう。何も作りたくないわ」
「その前に材料が無いさ」
そうだったわねと言って彼女は笑った。俺も彼女も疲れていた。彼女は何が食べたいとも言わず、俺も何を食べようとも言わず、車をスタートさせると、近頃ご無沙汰の猿楽町のサンドイッチ屋へ向かった。大学時代からの行き付けで、マスターとは顔見知りだ。彼女に会ってから一度も行っていないことにたった今気が付いた。歩いてもそう遠くない、10分程の道のりだが歩く気になれず、思わず車に乗ってしまった。あそこには駐車場が無い。だが、とにかく呆れるくらい疲れていて、いつもは絶対にしない路上駐車というものをすることにした。良いさ、この道は金持ちが平気で路上駐車するし、意地悪なミニパトの婦警さんも素通りして行くんだ。
最近やたらと高級ぶった店が増え、ミーハーな女子大生の溜まり場となってしまったこの辺りで、1軒だけポツンと地味な店が建っている。俺が大学に入った年に開店したわけだからもう12年になる。開店当初からの付き合いだ。大学時代には殆ど毎日と言って良いほどここで夕飯を食べた。サービススタンプはすぐにいっぱいになった。いっぱいになると俺はそれを女友達にあげた。誰もがキャンキャン喜んでそのカードの署名欄に自分の名前を書き込んだ。そしてメンバーズカードを手に入れる。へぇ代官山に行き付けのお店があるのぉ凄いわねぇと言われるために。あそこはね、代官山じゃないんだ、猿楽町なんだ、代官山はね、通りを挟んだ向こう側なんだよ、そう言うと女の子たちは笑って、代官山で良いの、と言ってたっけ。
「おや、何年振りだろ。もう他界したかと思ったよ」
山男のように髭を生やした大柄の男がマスターだ。BVDのTシャツにブルージーンズ、赤いエプロンをしている。俺と一回り違うのにとても若い。それにハンサムだ。相変わらず大袈裟な冗談を飛ばす。彼は俺の後ろに目をやった。そこには疲れた表情の森田秋子が立っている。
「彼はこの部屋に1人で住み続けるのかな」
「多分ね」
「部屋代1人で払えるのか」
「平気よ。会社が全額負担してるんだもの」
「本当? 凄く良い会社だね。じゃあ君たちはタダであの部屋に暮らしてるわけ?」
「そういうこと」
「一緒に住んでることが彼の会社にバレてないんだ」
「そういうことは要領良くやるから。田中君がリークさえしなければ私だってバレずに済んだのに」
「住所変更どうする?」
「しない」
「電車の定期券、代々木上原のまま支給されるよ」
「払い戻して買い直す」
「そうか」
段ボール箱の1つは後部座席に納まった。2つは無理だ。トランクに入れた。蓋を閉めると鈍い音がした。箱が潰れたのだ。
俺の部屋に荷物を放り込んで次に代々木上原に戻って来たのは3時だった。まだ暗い。
「疲れたわ」
そう言うと彼女はベッドに倒れ込んだ。
「朝まで眠りたい」
彼女は傍に居る俺の腕を引っ張った。俺がシャワーを浴びたいと言うと、彼女は、どうぞと言ってすぐに手を離してくれた。
「その間に眠ってしまっているかも」
「構わないよ」
いつでも程良い温度の湯が出るように調節されているそのシャワーは、水圧が高くとても心地良かった。流石に高い部屋は違うな。
軽く汗を流して部屋に戻ると彼女は裸でベッドの中に居た。眠ってはいなかった。
「抱いて」
「ここで?」
「そうよ。いけない?」
いけなかないけど気が進まないな。君とあいつが2人で寝るためのベッドだぜ。
「アラミスが残るよ」
「気にしないで」
彼女は俺のTシャツに手をかけた。
「脱いで、早く」
ベッドから起き上がって俺に抱き付いた。俺が脱いでいる間も抱き付いたままでいた。
「その気になってるくせに」
「その気じゃなくてもこうなるさ」
「変態」
俺のベッドとは違う匂いがする。俺は違う男の存在を意識しながら彼女を抱くわけだが、彼女はこの部屋のこのベッドで自分を抱いた奴のことを思いはしないのだろうか。変な感じだ。だが俺はいつものように彼女を抱くことが出来た。彼女は今このベッドで目を閉じ俺のことを思っているだろうか。奴に、他の男とこのベッドで寝ただろう、アラミスを付けた奴だろうと言われた時、彼女はどう言い訳するのだろう。あなたにそんなこと言う資格は無いと言えるのだろうか。彼女はただ、激しく喘いでいる。
次の朝、彼女は俺より早く目を覚まし、シャワーを浴び、新聞に目を通し、朝食を作り終え、そしてようやく俺を起こしに来た。手に持ったアラームを俺の耳に近付けて、起きてと囁いた。ピヨピヨという音が次第に大きくなり、最後にはピーという連続した音になる。ここまで来るとかなりうるさい。
「わかったよ。起きるよ。起きるから止めてくれ」
実を言うと彼女が起きたのと同時に俺も目を覚ましていた。他人の部屋では身の置き場が無いし、彼女が自分の部屋でどんなふうに過ごすのか見たかったので、寝たふりをしていた。
「朝ご飯が出来てます」
「悪いね」
「どういたしまして」
彼女はTシャツを1枚俺に放ってよこした。それには軽井沢のペンションのロゴが描かれていた。
「気にしないで着て」
断るところを見ると奴の物らしい。
「彼氏と2人で行ったんだ」
「そうよ。着るのイヤ?」
「そんなことはない」
「そんなのばっかりよ」
「そんなのばっかり?」
「私の世界を構成する物には多かれ少なかれ男が係わっているわ」
「例えば?」
「男からプレゼントされた物、借りてて返していない物、ペアで揃えた物、エトセトラ」
「へえ」
「だから気にしてたらキリが無い」
「そりゃそうだ。下着1枚にしても男が触れなかった物は無いだろうし」
「すっごいイヤミね」
そう言って彼女は本気で顔をしかめた。おっと危ない。ジェラシーは禁物だ。ましてや自分のことを棚に上げてはいけない。俺だって彼女に負けず劣らず遊んだのだ。これから傷を舐め合う相手を妬いてもしょうがない。
「ユーモアで言ったんだぜ」
「良いわ。私もいつかあなたに対してそんなこと言うかもしれないし」
そう言って彼女はたった今スイッチが切れたオーブントースターから厚切りのチーズトーストを取り出し、皿に載せた。ダイニングテーブルにはスクランブルエッグとカリカリベーコン、胡瓜とレタスとトマトのサラダ、オレンジジュースがもう既に用意され、俺たちが席に着くのを待っている。俺は多分奴がいつも座る側なのだろう、キッチンに遠い方の椅子を与えられた。
「10時には出ましょう」
「あと1時間しかないよ」
「大丈夫よ。残るは電気製品だけですもの」
「俺んちとダブる物は置いてけよ」
「そうね・・・でもオーブントースターは持ってくわ。私、ただのトーストよりカナッペの方が好きだから」
オーブントースターはタイマースタートが出来ない。が、彼女が自分で起きて用意するのだろうから、俺の関知するところではない。良いよと答え、ジュースを飲んだ。
電話機を外し、ラジカセのコンセントを抜き、アイロンとアイロン台をクロゼットから出し、カメラと懐中電灯とブレンダーを紙袋に入れ、オーブントースターをキッチンユニットから降ろした。200本は有ると思われるカセットテープが収納されたカセットラックを2人で運び、これで全部よと彼女は言った。
「本当は扇風機もこたつも私のなのよ。でもあなたも持ってるでしょう?」
「いいや、持ってない」
「あら、じゃあ持ってかなくちゃ」
「俺の部屋、要らないんだ」
「あ、そっか、冷暖房完備だったわね」
俺が車に積んでいる間、彼女は食器を片付け、簡単に掃除をした。1人で運んだので3往復した。二度目の荷物はトランクに納まった。最後に彼女はバスルームの洗面台から化粧品をポーチに入れて持って来た。この部屋に彼女の物は1つも無くなってしまった。
「一緒に住む時にダブる物は全て処分したの。処分されたのは殆どが私の物だった。私のは安物だったから」
そう言って彼女は苦笑した。
「代官山に着いたらすぐに電話しなくちゃ」
「いつ付くかな」
「混んでる時期じゃないから頼み込めばすぐに取り付けてくれるわよ」
予定の時刻より10分早く俺たちは代々木上原を出発した。
「もう二度と来ることないのね」
「わからないぞ」
「どうして?」
「恋しくなるかもしれない」
「それは無いわね」
「どうかな。それに出張から帰って来た彼がここで話し合いたいと言ったらどうする?」
「ここには来ない。ベッドに押し倒されたら逃げられないもの」
そう言って彼女はシフトノブに乗せた俺の手をぶった。俺は横顔で軽く笑った。
部屋に着くと彼女は俺の電話で電話局に電話した。渋谷区内の移動であることと、もう既に電話があるところに別に取り付けるのだということを説明すると、午後には工事出来るという答えが返って来た。書類上の手続きは住所変更だけで済むそうだ。彼女は大喜びで電話を終えた。
「ラッキーだわ。今日中に付くって」
それから俺たちは急いで彼女の荷物を整理した。衣類はタンスを買うまで段ボール箱のままベッドルームに置く。キッチンやクロゼットは彼女の荷物を置いてもまだ余裕がある。
「少ないね」
「それだけ捨てた物が多いってことだわ」
「お互い様だ」
昼過ぎ、電話は取り付けられ、一旦死んだ電話は元通り呼吸を始めた。ベッドルームにチェストを置くまでは電話の置き場が定まらないが、じきに解決する。
「電話番号が変わってないとなると彼氏からかかって来る可能性ありだな」
「そうね、仕方無いわ」
さらりと彼女は言った。そうさ、俺が気にすることじゃない。何度言えばわかるんだ、黒瀬陽一。森田秋子はお前の女にはならないぞ。
「腹が減った」
「同じく」
「どっか食べに行こう」
「そうしましょう。何も作りたくないわ」
「その前に材料が無いさ」
そうだったわねと言って彼女は笑った。俺も彼女も疲れていた。彼女は何が食べたいとも言わず、俺も何を食べようとも言わず、車をスタートさせると、近頃ご無沙汰の猿楽町のサンドイッチ屋へ向かった。大学時代からの行き付けで、マスターとは顔見知りだ。彼女に会ってから一度も行っていないことにたった今気が付いた。歩いてもそう遠くない、10分程の道のりだが歩く気になれず、思わず車に乗ってしまった。あそこには駐車場が無い。だが、とにかく呆れるくらい疲れていて、いつもは絶対にしない路上駐車というものをすることにした。良いさ、この道は金持ちが平気で路上駐車するし、意地悪なミニパトの婦警さんも素通りして行くんだ。
最近やたらと高級ぶった店が増え、ミーハーな女子大生の溜まり場となってしまったこの辺りで、1軒だけポツンと地味な店が建っている。俺が大学に入った年に開店したわけだからもう12年になる。開店当初からの付き合いだ。大学時代には殆ど毎日と言って良いほどここで夕飯を食べた。サービススタンプはすぐにいっぱいになった。いっぱいになると俺はそれを女友達にあげた。誰もがキャンキャン喜んでそのカードの署名欄に自分の名前を書き込んだ。そしてメンバーズカードを手に入れる。へぇ代官山に行き付けのお店があるのぉ凄いわねぇと言われるために。あそこはね、代官山じゃないんだ、猿楽町なんだ、代官山はね、通りを挟んだ向こう側なんだよ、そう言うと女の子たちは笑って、代官山で良いの、と言ってたっけ。
「おや、何年振りだろ。もう他界したかと思ったよ」
山男のように髭を生やした大柄の男がマスターだ。BVDのTシャツにブルージーンズ、赤いエプロンをしている。俺と一回り違うのにとても若い。それにハンサムだ。相変わらず大袈裟な冗談を飛ばす。彼は俺の後ろに目をやった。そこには疲れた表情の森田秋子が立っている。