いつもスウィング気分で
Up and up
 家でも会社でも彼女の電話が鳴る度に俺はドキリとする。今日はまだ奴は青森に居る。明日、明日が勝負の日だ。勤務中の外線は容赦無く交換で弾かれるのだから気にすることは無いのだが、彼女は一呼吸置いてから受話器を取る。当然社内の連絡、或いはプログラムテストの結果報告だ。それしか掛からない。奴は昼休みを狙って掛けて来るはずだ。
 そして昼休み、若杉を含む何人かが締切間近のプログラムをキーボードに叩き込んでいるのを残して、チームの半数が社員食堂へ向かおうとした時、彼女の電話が鳴り出した。ドアの手前で彼女は立ち止まり、振り返った。俺と目が合った。彼女が電話に辿り着く前に若杉が受けていた。プログラムテストの結果報告なら二言三言で終わるし、伝言で済むのだが、若杉は受話器を彼女に差し出した。
「オトコだよ」
 妙にいやらしく「オトコ」という言葉を吐き捨てて若杉が言う。彼女はにこやかに受話器を受け取った。ずっと見ているわけには行かず、俺は一番最後に部屋を出た。
 それほど長くかからず彼女は食堂に現れ、カレーライスを手に少し離れた席に座った。傍にセクションスリーの連中が居る。遅かったねどうしたの、うん電話が掛かって来たの、という会話が切れ切れに聞こえた。至極普通である。どういう類の電話だったのか彼女の表情からは読み取れない。まあ良い、夜に聞けば良いさ。
 彼女の隣にはセクションスリーのチーフ、遠藤が居る。31歳、妻1人子1人、浮いた噂は聞かないが、精悍なマスクで女たちに人気がある。社内で1人や2人泣いた女が居ても不思議は無い。その遠藤が森田秋子に話しかけている。彼女の表情は柔らかい。色っぽくさえある。他の女どもの目が心なしか険しいが、それを跳ね返すように柔らかく微笑んでいる。妬ける。
 悔しいことにこの2人、アフター5の約束をしたらしい。彼女は昼休みの後、自転車をトランクに積んで帰ってと耳打ちして来た。そおれ見たことか、自転車を使ったのは行きだけじゃないか。おい、飲みに行く格好じゃねぇだろうが。

 俺は部屋でやきもきと彼女の帰りを待っていた。もう1時を過ぎている。電車は無い。2人してどこをうろついているんだ。一体2人の間に何の話題があると言うんだ。チェッつまらねぇ、寝てしまおうとベッドへ行きかけると俺の電話が鳴った。
「はい」
「あ、私、秋子です」
 酔っている。呼吸が大きく声が上ずっている。ちっきしょー。
「どうした」
「寝てた?」
「うん」
 嘘だ。
「今渋谷なの」
「それで?」
「意地悪ね、遠藤さんと飲んでたの」
「分かってるよ」
「お願い、迎えに来て。電車無くなっちゃった」
「俺、飲んじゃったよ」
 これも嘘だ。こんなこともあろうかと飲まずに連絡を待っていた。さっきまで電話があったらすぐ行ってやろうと思っていたが、彼女のウキウキした声を聞いた途端、そんな優しい気持ちが吹っ飛んだ。
「歩いてもそんなに遠くないだろ」
 彼女は無言だ。大人気ない話だが単純に妬いている。遠藤と2人でというのが兎に角気に入らない。大したことではないし腹を立てるなどもっての他なのだが、もうここまで彼女に冷たくしてしまって、俺は引っ込みが付かなくなってしまっていた。最初に、今どこだ迎えに行くぞと言ってしまえば良かったものを。
「タクシーを拾えば良い」
 何も言わずに彼女は電話を切った。
 自己嫌悪。何てこった。遠藤と2人でどこかに泊まるつもりか。参ったな。彼女の思い切りの良さに俺はいつも振り回される。クソ、遠藤の奴。嫉妬の虫が疼く。
 次の朝彼女は始発で帰って来た。眠い目をこすっている。俺はベッドに居て目が覚めていたが気付かぬふりをした。何だかんだ言いながら独りで良く眠れた。彼女はソファの上に脱いだ服を置き裸になるとバスルームへ向かった。遠藤のブラバスの匂いを消すつもりかよ。
 バスルームから出て来た彼女を俺は上半身を起こして見ていた。彼女はいつもと変わらぬ様子で俺を見ると、
「起こしちゃった? ごめんなさい」
 と言った。言いたくない、言いたくないけど言わずにおけない、言ってしまおう。
「どこに泊まったんだ」
「ホテルよ」
「遠藤とか」
「まさか、彼は家に帰ったわ。当然でしょ。奥さんが居るんだから」
「妻子持ちは相手にしないんだ」
「そう、私のモラルよ」
「金は?」
 彼女は余分な金を持ち歩かない。
「遠藤さんに借りました」
「寝たんだろう」
「だから、妻子持ちは相手にしないって言ってるでしょう」
 ベッドサイドのチェストにバスローブを羽織った彼女がもたれている。
「ストップ、そこまでよ。これ以上は話す必要無し」
 冷たくそう言うとバスローブに体の水気を吸わせ、それを脱いでハンガーに掛けた。
「昨日昼休みに掛かって来た電話は?」
「嘗ての同居人から」
「何だって?」
「今日の打ち合わせ」
「どこで会う?」
「ちょっと待って。これ以上の質問は詮索されてるようでとってもイヤな気分」
 わかってるよ、もうやめるよ。そうやって臆面も無く俺の前に裸で立って、まるで娼婦のようだ。君の裸に対する免疫がまだできてないんだぜ。ああ、君を無理矢理ベッドに押し倒してしまいたい。
「少し早いけど朝食を作るわ」
 鮮やかなブルーのショーツを履き、長目のTシャツに腕を通すとその上にイクシーズの黄色いエプロンをした。キッチンから引き戸越しに彼女の声がする。
「黒瀬さんて変な人ですね」
「なんだよ、それ」
「色んな女知ってるくせに」
「それがどうした」
「別に」
 色んな女を知ってはいるが君みたいな女は居なかった、と素直に言えない。気楽な同居生活が始まったはずなのに、やっぱり彼女を俺の物にしたい。久しく抱くことのなかった独占欲が今俺の中にある。
 朝食はいつもの通りベッドで摂った。彼女は何も言わない。俺ももう何も言わない。怒っているのでも拗ねているのでもない。彼女は静かな女だ。ただそれだけだ。意識的に俺を無視しているのではないと信じたい。彼女がここを出て行くことを俺は恐れている。だからこの沈黙は気になるがこのままにしておかなくてはいけない。彼女が静かでいてくれて助かるよ。

 席に着くや否や彼女の電話が鳴った。10分遅ければ交換で弾かれる。この辺の周到なタイミングがあの人のイヤなところなのよと前に彼女が言っていた。それを思い出しているかどうかは知らないが、ちらりと俺を見、いいや、正確には俺の机の上に目をやり、静かに受話器を耳に当てた。
「はい、森田です」
 交換が外線を告げ、電話が切り換わったらしく彼女の声の調子が変わった。
「そう・・・そうよ・・・金曜日に・・・言えない・・・今はダメ・・・わかった、約束通りに」
 いつも思うが本当に彼らの電話は手短かだ。素っ気無いくらいだ。今の俺にはその素っ気無さが彼女の心が奴から離れている証に見えて救われる。
 電話の後彼女は、自転車を車に積んで帰ってお願い、とジェスチュアで示した。そう彼女は凝りもせず今日も自転車で来たのだ。そして今日も俺は自転車を積んで帰る羽目になったわけだ。おい、今日も帰らないなんて言うなよな。
 引き出しから業務用の茶封筒を出すと、彼女はそれに1万円を滑り込ませた。椅子を回して立ち上がり、ツカツカとファイリングキャビネットの向こうへと消えた。遠藤に金を返しに行ったのだ。10分20分と経っても戻って来ない。キャビネットの隙間から何気なく向こうを覗こうとしたが見えるはずなどない。セクションツーとセクションスリーの間にも同じようにキャビネットが立ち並んでいるのだから。セクションツーの誰も居ない机が見えただけだった。立ち上がってジャンプすれば見えるだろうが、それでは気にしているのがバレバレだ。
 俺は不貞腐れたように大袈裟に椅子を回してキーボードに向かった。TSOのスイッチをオンするとテレビのテストパターンと同じカラフルな画面がふわっと現れた。カーソルは左下にある。自分のIDを入力しログオンする。現れた規定画面に今必要としているプログラムが収納されているデータベース名を打ち込む。まだ組み始めたばかりで1000ステップにも達していない。ワンパケージの中の1つで、他は森田秋子と若杉が担当している。彼女は与えられた期間の半ばでプログラミングを終了し、現在テスト中だ。若杉はのんびり構えているのか、テスト用データも作成していない。土壇場で秋子に任せてしまうつもりなのだ。奴はいつもそうだ。森田秋子がチームに加わってからというもの、若杉はまともにプログラムを完成させていない。告げ口をするわけではないが、業務報告をする義務がチーフにはある。ワンステップいくらで依頼者に売っていて、1人何ステップ組んだかが成績になる。キャップもボスもサブチーフである奴の成績が落ちていることを快く思っていない。そのうちクビだ。ボスは不要な人間はいとも簡単に解雇する。サブチーフにもなってクビとは情けない。早く目を覚ませよ、若杉。
「よお黒瀬、ボスがお呼びだぞ。森田さんと連れ立って来いとさ。お前たち最近親密なんで、ボスのお怒りに触れたんじゃないか?」
 トイレへ行ったはずの若杉がどこでボスと接触したのか、そういうおフレを持って来た。まさか。一緒に暮らし始めてまだ4日目だ。その方面に関心が無いボスが真っ先に気付く訳が無い。腕時計を見ると9時30分。秋子はまだ席に戻って来ない。
「森田さんは?」
 と若杉。
「遠藤のところに居る」
「遠藤? 何でまた。仕事の話なわけないよな」
 ぶつぶつ言う若杉を尻目にセクションスリーへ向かった。呆れたことに彼女は遠藤の机の横に椅子を置いて脚を組んで座っている。もっと呆れたことに未だに封筒を手にしている。俺が来たのをチームの女たちは、チーフがサボっている部下を叱りに来たと思ったらしくほくそえんでいる。近付く俺に遠藤が気付き、秋子に微笑みかけていた顔をそのまま俺に向けた。
「やあ黒瀬、どうした。用があるんならわざわざ来なくても電話すれば良い」
 と顎で電話を示した。邪魔するなと言わんばかりで視線が衝突した。
「いいや、君に用じゃないんだ」
 真顔で言う俺にちらりと目をやると、彼女は立ち上がり椅子を隅に追いやった。
「ほんとにこれ良いんですかあ?」
 封筒を顔の横でヒラヒラさせながら甘えた声で彼女は言う。何だ何だ、かの森田秋子も女を売り物にする輩であったか。見損なったぜ。シッシッというように右手を振りながら遠藤は笑った。クソッ、ナイスミドルを演じやがって。
「どうかしましたか」
 俺に向き直り、真顔で彼女は言った。業務用の顔をしている。
「ボスがお呼びだ」
「私を?」
 右手の親指で自分の胸を指し、首を傾げた。
「君と俺を」
 口を尖らせ、ふうんと言うと遠藤に一礼し、行きましょうと俺を促した。廊下に出るとやにわに彼女が、バレたかしらと言った。2人が呼ばれたとなると彼女も俺も考えることは同じなのだ。
「いいや、それは無いな。ボスは部下の私生活をとやかく言わない」
「何故そう言えるの?」
「今迄言われたことがないから」
「それは信憑性あるわね」
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