いつもスウィング気分で
An office
 その日の午後で彼女はテスト用データを作成し終わり、テスト結果を待つ間若杉のプログラムを手伝った。俺は不快さをあからさまに顔に出したが、若杉は気にする様子も無い。若杉、いい加減にしろよ、そのうちボスからお呼びがかかるぞ。こいつは自分の査定の低さをボスのせいにしている。自分がどれだけ仕事をしないか全然わかっちゃいない。
 若杉が、残業するから付き合ってくれとみっともなくも懇願するのを、彼女はらしくもなく冷たくあしらうと、終業時刻を待ってさっさと帰り支度を始めた。若杉が今度は俺の所に来そうになるのをうまくかわして、俺は彼女より少し後れて外へ出た。246を神宮外苑方面に向かって足早に歩いて行く彼女を数10m離れて追った。ガソリンスタンドの前に来た所で彼女は手を振り道端へ寄った。そこには400ccのホンダのバイクに跨った男が居た。ヘルメットで顔は見えないが、夏物にしては暑苦しい印象のスーツが年より老けて見せていた。彼女に、ミラーにかけてあったヘルメットを手渡しながら何か言っているようだ。俺の立っているところまで声は聞こえない。
 彼女をしがみつかせた男はアクセルを噴かすと後方を確認して走り出した。こっちまで来る前に左へ折れ、外苑東通りへ入った。どこへ向かったのだろう。全くミーハーな奴だ。キザな車の他にバイクまで持っていやがる。俺の胸中ではブンブンとうるさい蜂が嫉妬の巣を突っついている。みっともないことだがおとなしく部屋で待っていようにも気持ちが納まらない。この歳になって女に振り回されるなんて滑稽だ。そうさ、たまには部屋で独りでビールでも飲んでいれば良い。もうすぐ30、落ち着け黒瀬陽一。森田秋子と付き合い始めて俺は何度こんな風に自分に言い聞かせたことだろう。
 しかし気を揉んだ割には彼女は2時間余りで帰って来た。彼女がドタバタ入って来た時、俺は空のバドワイザーの大缶を1本転がして、手にしたもう1本も半分程空けていた。
「話にならなかったわ」
と誰かに押されでもしたようにドスンとソファーに腰をおろすや否や言った。テーブルの皿には少し厚目に切ったレーズンバターとソフトサラミのマリネがあった。レーズンバターをつまんで一角をかじると、俺の飲みかけのビールを奪い取ってゴクゴクと勢いよく飲んだ。3分の1程になった。そして話し続けた。
「バイクに乗った時やばいと思ったんだけどね」
「上原に行ったんだ」
「乗るんじゃなかったわ」
「ヤッたわけ?」
「ヤッてません」
「だって話にならなかったんだろう?」
「ベッドに押し倒されはしたけど・・・」
「それで?」
「少し感情的になってた」
「それで?」
「戻って来いって言われた」
「それで?」
「私がノーと答えればそれで終わり」
「結論は?」
「私が一方的に別れを告げて帰って来ました」
「俺のことは話した?」
「話さない。どうせ新しい男と居るんだろうとは言われたけど、彼には関係無いもの」
「奴が君を求めて会社まで来たりしないか?」
「有り得るけどみっともない真似はしない人だから」
「最後に少しだけでも奴にこの体を拝ませてやれば良かったろうに」
 大した意味も無くそう言ったのだが、彼女は真顔でそっぽを向いてパタパタと服を脱ぎだした。
「シャワーを浴びて来る」
 そう言ってさっさと行ってしまった。チェッ、俺を放っとくのかよ。キスぐらいしてってくれたって良いじゃんか。
 冷蔵庫から3本目のバドワイザーを引きずり出していつもより苦いような気がしながらほとんど飲み干そうという頃、彼女は裸のままバスタオルで髪をクシャクシャ拭きながら戻って来た。タオルを体に巻き付け、壁に立てかけたロングミラーの前に座ると、一言、
「せいせいした」
と言い、鏡の中の俺を見て笑った。俺は空になりかけた缶を顔の前で振って見せた。缶底に沈んだリングプルのこもった音と少量残った液体のピチピチいう音が静かな部屋に響いた。
 彼女がまだ乾ききらない髪と潤んだ瞳で、今すぐ抱いてと言った時には、ボトルのウィスキーも半分になっていたし、つまみだけで空腹は癒えたし、夜も更けていた。上気した彼女の体からムスクの匂いがして、仰せの通りすぐに俺は彼女を抱いた。彼女は、痛いと言ったがその痛みはすぐに快感に変わったようだ。

「今日からは絶対に往復自転車でって決心したのにぃ」
 ブラインドをバチバチと勢いよく撫で上げると、ブレードの向きが変わって外の光が入って来た。昨夜の天気予報では、夜半から天気が崩れると言っていたが果たしてその通りになった。朝の陽光は雨のフロスティグラスを通過して薄ぼんやりとこの部屋に届いている。そんな柔らかい日差しでも目覚めたばかりの俺には十分明るい。目をしばたいて彼女の裸の背中を見た。逆行のせいで影になっている。彼女は片手で髪を掻き上げた。
「どうする? 車で一緒に行くか?」
「そうする」
 ベンチチェストから真っ青なショーツを取り出すと、彼女はそれを履いた。
「雨は嫌いだわ。髪が湿気を含んで膨れ上がるの。ただでさえ落ち着きの無い髪の毛が暴れまくる」
 そう言うと細かくウェイブのかかった長い髪をバンダナで無造作に束ねた。いつも思うことだが、彼女が色っぽく艶っぽいのはその髪のせいだ。背が低いと長い髪は重く感じられるはずだが、体つきが華奢なせいでアンバランスなバランスがある。アンビバレンスな美。東洋的な顔立ちにソヴァージュが良く似合っている。すごく魅力的だ。
「今日は外で飲みましょうよ」
「車で行くのに?」
「絵画館前に置けば良いわ。一晩置けるでしょう?」
「イヤだよ。いたずらされる」
「んじゃ電車で行きましょう」
「何も雨の初日に飲みに行くこたないだろ」
「ううん、どーしても今日飲みたいの」
「良いよ、わかったよ。でも車で行こう。5時迄に君の気が変わらないとも限らない」
「変わらないもん」
 例の、上から下まで小さなボタンだらけのダンガリーのノースリーブワンピースを着て、彼女はキッチンへ行った。
「ピザトーストにしよっか」
「うん、良いねえ」
 冷蔵庫の扉を開ける音、ガサゴソとチーズやピーマンを取り出す音、扉を閉める音。コーヒーはもう出来上がっていて、さっきからサーモスタットが付いたり切れたりしている。キッチンからはピーマンを輪切りにする音やピザソースの瓶の蓋を開ける音などが休みなく聞こえる。その時、俺はハッとした。そうだ、俺も何かしなくてはいけないんじゃないか? 朝食が出来上がるのをこんな風にぐうたら亭主のように待っていてはいけないんじゃないか? 彼女は手伝えとは言わない。何故だろう。前の男とのこんな暮らしがイヤで逃げて来たはずだ。寝ていないで手伝ってと言われたら、俺はイヤとは言わない。遠慮しているのか? 待てよ、にこやかな笑顔の下で、こんなのイヤだと思っているのかもしれない。そうか、きっとこれがいけないのだ。この状態に俺が慣れてしまってはいけない。俺の生活の一部に俺自身が無関心になってしまってはいけない。彼女は好んでやっているわけではない。また、好んでする必要も義務も無い。俺はそうならないと思い込んでいたが、危うく前者の轍を踏むところだった。
 キッチン迄行って彼女の隣に立った。
「俺、思うんだけどさ」
「何?」
 彼女を見下ろして話し始めた。彼女はオーブントースターに4枚切のパンを2枚置いた。
「俺が手伝えることがあったら言ってくれないか」
 ピザソースの付いた指をティッシュで拭うとタイマーをジジジと回し、「5」に合わせた。こちらを見もせずに今度は卵を割り始めた。
「手伝いたいなら言われなくてもやれば良いのに。動く気配を見せない人に手伝えなんて言えないわよ。そういう人って意外に役に立たないものなの」
 案の定だ。彼女は内心不服だったわけだ。俺は自分が動かないことに何の疑問も抱かなかった。彼女が来るまでは俺だって一通りのことを自分でしていたのに、何故何もしないことを不自然に思わなかったのだろう。
「俺にも何かさせてくれよ。俺が手を出す隙を与えてくれても良いじゃないか」
 フライパンに油を敷く彼女。
「まるであなたが何もしないのは私のせいみたいね」
「そうじゃないよ。何かさせてくれるのも優しさじゃないかって言ってるんだ」
 溶き卵の入ったボウルを手渡した。これは手伝ってるうちには入らないな。ファンのスイッチを入れると、ゴウと音がしてフードに煙が吸い込まれた。ジャーッとフライパンに卵を流し込むと、彼女は左手でフライパンを回しながら言った。
「そんなことに優しさを求めるなんて分別のある大人のすること? 自分の意志で行動すれば? 食事を作るのは私の役目で食べるのはあなたの役目と決めるなら、それ自体に私は異議を唱えないわ」
 フライ返しでコロコロと転がすと、少し平べったいプレーンオムレツが出来た。彼女の言うことはもっともだ。頭の中に彼女の持論として時間をかけて整理されたのだろう。ああ、俺ももう少しで前の男と同じ事をするところだった。気が付いて良かった。男女差の無い職場で働く俺たち、区別は必要だが差別はあってはいけない。彼女も俺も同じレベルで働いているのだ。
「家の中のことは君に任せるよ」
「何それ。やめてよ」
「その代わり部屋代は要らない」
「どういう意味?」
 ガスを止め、ようやく彼女は俺の顔を見た。見上げる彼女の顔は明らかに怒っている。
「言葉は悪いけど君はハウスキーパーってこと」
「それで?」
「家の中の事はどう頑張っても俺は君には敵わない。かえって手間がかかる位だ。だから君に任せる」
「部屋代とどう関係あるの?」
「だから、俺が君をハウスキーパーとして雇うわけさ」
「あなたは何もしないってこと?」
「いいや、そういうわけではない」
「じゃあ、お金で解決することじゃないんじゃない? あなたはやりたいことをやる、私もそう。あなたが何もしないことに私が不満を抱くようになったら私は出て行く。だから気にしないで」
 ああ、結局こうなるんだ。彼女はいとも簡単に別れを持ち出す。独りになることに何の不安も無いのだろうか。俺は彼女を失いたくなくて、彼女を納得させる手立てを必死に考えている。
「私はあなたに不満があっても多分言わない。言って解る人なら言わなくても自分で気が付く。解らない人には何度言っても解りっこないってのが私の持論」
「冷たいんだな。知ってて放っとくわけだろ」
「お互い様よ」
「俺は気を付けるよ」
 彼女は議論を諦めたように溜息をつき、フライパンの上で冷めかけたオムレツを皿に移した。
「こんな風に話す余裕の無い夫婦も居るのよね」
「俺は建設的にやる」
 彼女が「夫婦」という言葉を遣ったのでドキリとした。嬉しいと思えた。前の同居人との暮らしより進歩しただろうか。奴は彼女を守れなかった。俺は努力する。折に触れ彼女と討論し、2人で結論を出し、彼女が俺の傍に居続けられるようにする。
 トレイに皿を2つ載せてキッチンから彼女が出て来る迄に、俺はマグにコーヒーを注いだ。彼女のマグにはミルクをたっぷり。俺はそのまま。
「あ、ケチャップ」
「持って来る」
「ありがとう」
 6時にステレオのタイマーがオンになってからずっとバックにMJQが流れていた。今、A面が終わって自動的にB面に切り替わった。彼女のカセットライブラリーの中の1本だ。オリジナルテープの作成は彼女に任せてある。俺も彼女も200本以上テープを持つが、内容が殆どダブっているので俺のは処分しても良いと思っている。俺のは編集が粗末だし、テープは古いし、雑然とケースに放り込んであるだけだが、彼女のは違う。きちんとナンバリングし、インデックスブックまで作ってある。それも手書きではなくタイプだ。検索しやすいようにアルファベット順と番号順に分けている。図書館のようだ。自分のライブラリーから探すより、彼女のインデックスブックを見た方が早い。
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